メッセンジャー:仁科宣雄師
「へりくだる恵み」 ( 列王記第二 5章 1~19節 )
子どもたちはできないことができた喜びを糧にしながら成長していきます。一生懸命頑張っている時、あまりにも簡単な事を頼むと、見向きもしません。大人である私たちは十分頑張って生きてきたところで、肩の力を抜くことを教えられるのではないでしょうか?
Ⅰ.「若い娘」の声を聞くナアマン (列王記第二 5章1~6節)
北王国イスラエルにおいて、預言者エリヤの後を継いだエリシャが神のことばを伝え続けます。外国から攻撃を受け続けるイスラエルは、アラム国との戦いにおいて負けます。アラムの国の将軍ナアマンは、「勇士」として戦いに貢献し、王の絶大な信頼を得ていましたが、「ツァラアト(重い皮膚病)」が彼を悩み苦しませていました。そんな様子を見てナアマンの妻に仕えていた、捕虜として連れてこられたイスラエル人の「若い娘」が「もし、サマリアにいる預言者のところに行かれたなら…、ツァラアトを治してくださるでしょう(:3)」と進言します。これを受け入れナアマンは敵国イスラエルに出向いたのです。ナアマンの軍人としての成功、「若い娘」の存在など、私たちが神を知る前から、神は私たちの人生に関わっていてくださったのです。
Ⅱ.しもべの声を聞くナアマン (列王記第二 5章7~14節)
軍人として最高の礼儀を尽くしてエリシャの家に着いたナアマンは、当然エリシャが神の力を用いて治してくれるだろうと期待していましたが(:11)、エリシャは姿を見せず、代わりの使いの者が、「ヨルダン川で体を七回洗うように」と伝えたのです。ナアマンは、なんとも無礼な待遇に憤慨し、激怒して帰ろうとしました。しかし、ナアマンのしもべたちは、「簡単なことなのだからこそ」と進言します。ナアマンがそれを受け入れてヨルダン川に七回体を浸すと、皮膚は元どおりどころか、幼子の体のように癒されたのです。
私たちは、「自分の望む方法で、神はこの悩みを解決してくれるはずだ」と思い込んで祈っている場合が多いのです。しかし、神には神の方法があるのです。神は、ご自身の方法に従う謙遜さを私たちに求めておられます。真の神の救いのご計画は「ただ信じるだけ」という簡単すぎる方法です。それがゆえに信じきれない人が多いのです。自分の思いを神に預け、神の現実を通して救われる方法を素直に受け入れましょう。
Ⅲ.へりくだる恵み (列王記第二 5章15~19節)
癒されたナアマンは感謝にあふれて、一行を引き連れてエリシャの家に引き返し、「イスラエルのほか、全世界の神はどこにもおられない」と告白しました。エリシャは、褒められ、感謝を受けるべきは、病を癒した神のみであると贈り物も拒否します。ナアマンは、祭壇を築き、神に礼拝を捧げるのでした。こうしてナアマンは、癒しを超えた「真の神との出会い」、回心へと導かれたのです。アラムで家臣として主君に仕えながらも、その主君以上の存在である主を拝して生きる者と変えられたのです(ルカ17:11~16)。
全てのことが良い結果で終わるとは限りません。特に病気に関して、願うように進まない厳しい現実にあう時、とても感謝できません。しかし、時間をかけて神の愛が働き、目の前の状況を感謝して受け止めることができるように「神が変えて」くださるのです。
結 論
神のことばに素直に従う「へりくだった心」で行動した時、病に癒しと共に、真の神に出会うという恵みが備えられていました。また、この出来事にはエリシャだけでなく、「若い娘」「しもべたち」が用いられました。私たちも、主のご計画の中で、真の神に出会わせる「人」として用いていただけるなら何と幸いなことでしょうか。人知を超えた救いを備えておられる神の恵みを、「へりくだって」受け取りましょう。