メッセンジャー:仁科宣雄師
「行いが伴う信仰」 ( ヤコブ 2章 14~26節 )
「受けるよりも与えるほうが幸いである」のことばは、一般の人でも使うことのある、神の愛を代表することばです。この言葉の意味は深く、これを実行するには、このことばの発信元であり、その原動力となる「主の十字架の愛に」感動し続ける必要があります。
1.「多くの良いわざと施し」を残した主の弟子 (使徒9章36,39節)
ドルカス(ヘブル語名でタビタ)は、ピリポやペテロの伝道による霊の実であり、「女の弟子」と簡潔に紹介されていますが、一信者として数々の証しを残しました。特に、夫を亡くして貧しい暮らしをしている人たちのために、下着や服を縫ってあげました。救いの恵みを受け取り、キリストの花嫁とされた喜びがあふれ、「多くの良いわざと施しをしていた」のです。たとえ、直接伝道はしなくても、その言葉には、主によって生かされている愛と感謝が現れていたことに間違いは無いでしょう。永遠のいのちを受けたクリスチャンは、主に似た者に新しく造られ、良いわざができるように、神が「良い行いをあらかじめ備えてくださ」っているからです(エペソ2:10)。彼女はこの恵みを無駄にしなかったのです。
2.人々への祝福を自分にも受けた主の弟子 (使徒9章37~42節)
そんな彼女が病気で死んでしまったのです。ちょうどそのころ、ペテロが近くの町にいて、教会の人たちは、「すぐ来てほしい」と頼みに行きました。彼らの頼みを聞いてドルカスのもとに着いたペテロのもとに、生前ドルカスに服を作ってもらった女性たちが次々とやって来て、彼女の愛のわざを伝えたのです。
ペテロは、人々を部屋から出してひざまずいて祈り、かつてイエスがしたように「起きなさい」と命じました(マルコ5:41)。すると彼女は生き返ったのです。ドルカスをよみがえらせたのは「主」であり、ペテロの祈りでした。同時に、ヤッファの人たちのドルカスに対する愛と主へのあつい信仰と願いでした。ドルカスが人々に与えた祝福のわざが、ドルカスに戻ってきたのです。
3.行いが伴う信仰 (ヤコブ2・14~26)
ヤコブのことば(2:14∼18)は、パウロの信仰義認を否定することではありません.パウロは信仰に入る人たちに対して「信じるだけで救われる」神の恵みを強調し,、ヤコブは、信じて救われた人の姿を強調しています。そのどちらも併せて「信仰」と言えるのです。
ドルカスは、神への応答、人を愛することの実践として、自分にできる裁縫で、貧しく孤独な女性たちに服を作ってあげようと思ったのです。
信仰は「名詞」で終わることなく「動詞」です。沈黙しません。神と自分の関係だけで満足しません。イエスの十字架と復活によって救われ、神の愛を知った人は、いままでの自分でいられなくなり、行動を起こします。救われるためではなく、救われた感謝の応答として、行いが出てくるのです。
結 論
わたしたちは、自分の信仰をどんな 愛のかたちで表せるでしょうか。一見小さなことも、皆さんだからできる大切なことです。私たちを命がけで救ってくださったイエスと、私たちを愛してやまない神への感謝の応答として、できることを追い求めていきましょう