2022年1月9日 成人祝福礼拝メッセージ 「 隣人を愛する愛 」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「 隣人を愛する愛 」    ( ルカの福音書 10章25~37節 )

20歳を迎えて「社会や人の役に立つ人になりたい」と抱負を語る人の多くが、自分が受けた感謝を社会にお返ししたいという気持ちからであり。また、身近にいる愛する人のために何かできることをという思いからのようです。今日の箇所は道徳的にも受け入れられる所ですが、イエスが本来の意味を教えています。

Ⅰ.律法学者の正しさ      (10:25~29)

日々律法を学び、正しく生きようと考える律法学者は、「永遠のいのちを得る」ためには「心を尽くし…あなたの神、主を愛しなさい」「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という答えを知っていながら、「イエスを試す」ためにイエスに問いかけます。イエスに「実行するなら得られる」と答えられ、面白くありません。すでに私は愛しているとの思いで、「では、私の隣人とは?」と問い返します。

Ⅱ.愛が行動となったサマリヤ人      (10:30~37)

イエスは答えとして、たとえを話します。1人のユダヤ人が旅の途中で強盗に襲われ傷つき倒れていました。そこを通りがかった祭司、レビ人は旅人を避けて通り過ぎ、その後に来たサマリヤ人が丁寧に介抱したという話です。
① 33節 祭司、レビ人、サマリヤ人の3者とも傷ついた人を「見ました。」先の二人は、「この人がもし死んでいたら、死体の汚れに触れて自分の務めを全うできなくなる」からと考え、神のみ心を示す重要な役割である「立場」を守ろうと、本当に助けを必要としている人に愛を示すことができなかったのです。
② 34節 サマリヤ人は、「犬猿の仲の」ユダヤ人ではなく、「負傷して助けが必要な」ユダヤ人と見て、気の毒に思い近づきました。旅の危険を考え、持参していた物を使い、時間を割き、真心をもって介抱したのです。
③ 35節 一人で背負う事ではありません。サマリヤ人は自分の用事があるために宿屋の主人に後を託します。治療費の支払いから経済的にも恵まれていたようです。
愛することは自分が今持っているものを分かち合うことです。私たちはいつも神様から与えられている物を一つひとつ感謝しているなら、いざという時、それらを用いることができるのです。

Ⅲ.隣人を愛する愛

36節 イエスは、「この中で、襲われた人の隣人となったのは誰か?」と尋ねます。
自分が選んで隣人を作るのではなく、自ら進んで隣人になることが「愛する」ことであるとイエスは教えているのです。御子であるイエスが、人となって私たちの所に来てくださいました。私の隣人となってくださったのです。
彼が「あわれみ深い行いをした人です」と答えると、イエスは、一度ならず、二度までも「教えられたことを実行せよ」と命じています。

結  論

今日の箇所は「良きサマリヤ人」と言うより「憐れみ深いサマリヤ人」と言う方が正しいでしょう。「憐れみ」とは、今見ている状況に反応するだけでなく、その人の結末を考えて、内臓がえぐられるほどに痛むこととあります。私たちを永遠の滅びから救うために「あわれみ」、愛する独り子の命を与えてくださった神の愛に心から感謝し、この愛によって隣人を愛する者とならせていただきましょう。

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