2022年1月23日 主日礼拝メッセージ 「 備えして待つ娘たち 」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「 備えして待つ娘たち 」  ( マタイの福音書 25章1~13節 )

「世の終わりが来る」という話をすると「何をバカな!」と言って終われない不安を覚える人、その意味を真剣にとらえている人が少なくはありません。「世の終わり」について、本当の意味は「世の創」を記す聖書にこそ、答えが記されています。いつ何が起こってもおかしくない現在、必要な「備え」とは?

Ⅰ.花婿を待つ娘たち   (25 :1~4)  

24章において、イエスはオリーブ山で壮麗なエルサレムを眼下に、世の終わりと再臨の宣告をされ、続けて再臨についての3つのたとえを話します。今日はその一つ、結婚式でのたとえです。 当時の結婚式は、夜に盛大に執り行われました。花婿は友人たちを伴って花嫁を迎えに行き、自分の家に連れて帰るのですが、花嫁の友人達が、付き添いとして明かりを手にし、夜道を照らす大切な役目を担うのです。その10人の友人(娘たち)は、花婿の到着が遅れるという予定外の出来事によって、「賢い」と「愚かな」娘たちに分かれました。花婿を待ちくたびれて眠くなり寝入ってしまった娘たちに、花婿が到着したとの知らせがはいり、娘たちは飛び起きて急いでともしびを手にします。こうした事態も予測し、ともしびと油を備えていたのが「賢い」娘たち。

Ⅱ.「閉ざされた」娘たち   (25:5~12)

予備の油を用意していなかった愚かな娘たちは油を分けてくれるよう頼みますが、賢い娘たちは、分け与えることはできなかったのです。このことは、信仰は分け与えるものではなく、各人が自分のものとして持っているべきものであることを教えています。  愚かな娘たちは急いで油を買いに行き、花婿の家へと向かいましたが、戸は閉じられ、出てきた主人に「私はあなたがたを知りません」と言われ、家に入れなかったのです。  イエスは、再臨の主が来られると知っていながら、そのために十分な備えをしていなかったという怠慢、不信仰の姿勢を「愚か」とし、「思慮深い」とも訳される「賢い」とは、その時のために様々なことを考えて備えることと教えています。 私たちは、災害に備えてせっかく備蓄していてても、一度用意しただけではいざという時、役に立ちません。日頃から目に入れ、その場を想定しておくことが大事な備えです。

Ⅲ.「目をさましていなさい」    (25:13)

イエスは結婚よりもはるかに重要な再臨に対して、「賢い娘たち」として歩むようにと、24章で告げた命令とその理由を再度繰り返します。「目をさましていなさい」とは、必ず迎えに来てくださる主の「御手」を信じて待ち望み、「今行きます!」とすぐ手を出せるよう、霊の目を開いている事です。私たちにとって、最も大切な魂を生かすために、日々聖霊による生きた神との交わりを続ける事です

結  論

この世において「自分の命が終える日」はいくらか想像できますが、世の終わりについて、今、聖書に記されていることが現実のように起こっていても、私たちクリスチャンには想像の域をこえています。いつ、どんな風にかはイエスも知りません。神に与えられた「命」が「どこに向かって生きているのか」と言う問いに、はっきり「再臨の主に出会うまで」という目標をかかげて、主なる花婿が、花嫁なる私たちを迎えに来てくださるその日、この世がどんな姿になろうとも、結婚を意味する新しい喜びの生活の始まりを信じて、主の御手を待ち望みましょう

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