メッセンジャー:仁科宣雄師
「 永遠のいのちの価値 」 ( マルコの福音書 10章17~31節 )
「命を守る行動」のために選択が求められる生活が続きますが、それはコロナ感染拡大の今に限った事ではなく常に求められることであります。残念ながら自分で努力するだけではかなわないことがしばしばです。イエスは肉体の命は限りがあっても、永遠に生き続ける霊の命があること、その価値を認めて追い求めることを教えています。
Ⅰ.完全を求める青年 (10:17~23)
イエスを訪ねて来た「一人の人」は、若くして議員、役員とも記され、社会的にも権力と富をもつ立派な青年だったようです(マタイ19:20、ルカ18:18)。彼は、あと一つ足りない「永遠のいのち」を得ようと、「良き師」と認めるイエスに答えを求めて来ました。
イエスが「永遠のいのち」への道である十戒を示すと、青年は、それらはすべて守っていると言い放ち、それならこの場でいただけるはずだと自負があったのです。そんな彼にイエスは、「いつくしんで(愛して)」向き合い、「あなたには欠けが一つある」と指摘。「隣人を愛せている」と言うが、心からの愛情か、と問うたのです。それは、青年の自負心を根底から揺さぶるほど厳しくも的確な指摘でした。その「欠け」に気づかせ向き合わせるため財を貧者に施すよう求めましたが、彼は悲しげに立ち去ったのです。
Ⅱ.欠けを埋めるもの (10:23~27)
イエスも悲痛をもって受け止めつつ、弟子たちに富者が救われる困難さを話します彼らは「富」が本人の信仰に対する神からの祝福と信じていたので、これが否定されると、結局誰も救われないのか?と驚き、不安になるのでした。イエスは、弟子たちに「永遠のいのち=救い」は人間のいかなる領域をも超える事柄であり、神にあってこそ救いはもちろん、一切が可能であると明言します(:27)。
Ⅲ.永遠のいのちの価値 (10:28~31)
この青年は、「永遠のいのち」があれば完全と思っていましたが、自分の財産と天秤にかけた時、主の言葉に従うほどの価値を見いだせなかったのです。
ペテロは、師である主に全てを捨てて「従って」いることを自負していますが、イエスは弟子における「捨てる」と「受ける」との関係、「この世」と「来るべき世」を対比して話します。イエスに従うには家族さえも捨てなければならない時があるが、神が現れ、神が導かれて初めて従うことができるのであり、その時には捨てた肉親の「百倍」に匹敵する兄弟姉妹、母(複数)までもが与えられることを約束しているのです。イエスの「いつくしみ(:21)」は、この時の議員には届きませんでした。「先の者」に含まれるペテロたちも「持てるものを捨てて、主に従っている」ものの、「欠け」を宿していました。しかし、イエスのいつくしみは、注がれ続け、十字架によって結実するのです。
結 論
この世にあって、神の国に生きる喜びを見いだすために「捨てる」必要がありますが、自分ではできない不完全な者であるからこそ、「神にはどんなこともできるのです」と宣言されています。「救い」はもちろん、それを選び取る判断と力を与えてくださる主に信頼しましょう。王である主を拝し、主のために捨てたところ、主の御声に従ったところで見出せる「永遠のいのち」の祝福を確信しつつ、歩ませていただきましょう。