メッセンジャー:仁科宣雄師
「 天からの声 」 ( ルカの福音書 9章 28~36節)
「キリスト教」と言うと、多くの人はまず神父・シスター、ステンドグラスのある大きな教 会をイメージします。「教会」とは、神を礼拝する所であり、具体的には、聖書の教えに に耳を傾け、主の救いを体験し、感謝の祈りと賛美を捧げる所と言えるでしょう。 イエスは、外見は「特別な力ある人」「神の御子」とは言い難い姿だったようですが、神の御子として栄光の姿を見せられた時が一度だけありました。今日の箇所です。
Ⅰ.祈りに招かれるイエス (9:28~)
イエスは、弟子たちにイエス自らの死と復活を預言し、「救い主」としての働きの核心を語られた後のことです。イエスは「祈るために山に」登られました。「ペテロたちは眠くてたまらなかった」とありますから、夜の出来事と推測できます。当時の人々にとって、「夜」はしばしば神に逆らう力が最も活躍する時、「山」もまた神に背く力が住む所と考えられており、夜、山に登るということは、恐れられる行為でした。その夜の山にイエスは、ご自分の愛するペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子を連れて登られたのです。
Ⅱ.栄光に輝くイエス (:29~32)
頂上に着くと3人は暗闇の中で、祈っておられるイエスの姿が光り輝くのを見ました。目を覚ますと、イエスと共にモーセとエリヤが立って、「イエスが遂げようとする最期のことについて」話しているのを見たのです。この「最期」の言葉はギリシャ語では「エクソダス」という言葉であり、「脱出」という意味があります。イエスにとっての最期は、苦難から逃げ出すことではなく、この世から出て行く=死を意味するものでした。栄光の輝きの中で、律法の代表としてのモーセ、預言者の代表としてのエリヤと共に、「私たちの神はこの世から全ての人々を救い出すご計画を持ち続けておられる」、そして、「それを完成させるのはわたし以外にいない」ことを語っておられたのです。
Ⅲ.天からの声 (9:33~36)
ペテロは、思わずこの3人を礼拝しようと「幕屋を3つ造りましょう」と言います。本来、礼拝すべきは主イエスだけですが、こう言う以外に言うことが分からなかったのです。 雲の中から声がありました。弟子たちはただただ恐れ、ひれ伏します。 「これはわたしの選んだ子」…イザヤ42章において「しもべ」の姿を示すと同時に、詩篇2篇の王の即位の歌をもって、わが子イエスこそ真の王である(:7)との宣言です。 「これに聞け」…イエスは、最期まで、世の人の罪のために徹底的にたたかれながら、ついに黙りきって殺されてしまう「しもべ」に他ならなかったのですが、この「死」をもって語られたのです。 私たちは自分の思いの中で、「主の救い」に対する優しい言葉、擁護する言葉だけを期待している時には、主の御声を聞き逃してしまうのです。ペテロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」と見事に主を言い当てますが、主を愛するゆえに、この後何度も主の声を否定するのでした。しかし、主の十字架の死とよみがえりの後に主の真実の言葉が次々とよみがえってきたのです。
結 論
私たちにとってイエスの栄光を見るということは、何か神秘的な体験を求めるのではなく、主を目の前の置き続けるということです。この世のあまりにも大きい暗闇の中にあって、私たちの行く道を開いて待っていて下さる主の栄光の姿を追い求め続けましょう。私たちの教会は、43周年を迎えました。愛する教会が真の愛と希望を表していくことができるよう、一人ひとりが主の御声に聞き従ってまいりましょう。 |