メッセンジャー:仁科宣雄師
「 代価が払われた救い 」 (マタイの福音書 27章27~50節)
ボタン1個から始まって物々交換を続けたら最後は車に至ったゲームがありました。価値観の違いは多くの罪を生みだすことがあると同様に、捨てられるべきものが生かされることもあるのです。人の目と神の目に映る価値観の違いはどれほどのものでしょう。
受難週木曜日の夜、最後の晩餐のあと、深夜から翌日にかけて、不当と欺瞞と混乱に満ちた裁判を経て、「ユダヤ人の王」との罪状で十字架刑が執行されたのです。このイエスの死に関わった人々の反応や態度を通して、それぞれの価値観を見ていきましょう。
Ⅰ.十字架刑の執行 (:27~38)
刑の執行を担うローマ兵たちは、イエスを鞭で打ち、王に見立てていばらの冠をかぶせからかい、つばを吐きかけました。彼らは任務の一つとして刑を執行すればよいだけであって、イエスに対する個人的な恨みなどなかったはずです。彼らの何の思いもなく罵倒する姿には、人間の罪の底知れない深さが現れています。彼らの誇りとは? イエスは重い木の十字架を背負って刑場まで歩かされますが、鞭打たれた身体ではとても無理です。そこに居合わせたクレネ人のシモンが無理やり背負わされたのです。突然の出来事にもかかわらず彼にとってかけがいのないイエスとの出会いとなりました。
Ⅱ.主イエスの死 (:39~50)
両手両足に太い釘を打たれ十字架につけられたイエスに、体の痛みを和らげるためのぶどう酒が差し出されましたが、その苦痛を全て引き受けようと意志をもって拒否します。体の痛み以上に魂の苦悩に耐えるイエスのそばで、イエスの脱いだ服を分け合うローマ兵。通りすがりの見物人たち、祭司長や律法学者、長老たち、イエスの隣りで十字架につけられた強盗の一人も「神の子なら自分を救え。十字架から降りてこい」「今、神が救い出すなら、その神を信じよう」と罵り、嘲ります。しかしこのイエスの姿に、強盗の一人は悔い改め、信仰を告白したのです。イエスは即座に神の救いを宣言します(ルカ23:39∼43)。 イエスにとって「神の子」としての全能の力は、「十字架から降りる」ことより、全ての人の罪を赦すという神のみこころに「従い通すこと」に表されたのです。それは、宣教の初め、サタンとの戦いに打ち勝って以来(マタイ4:1∼10)、イエスについてまわった誘惑でもあり、生涯の危機であるこの時、彼を襲いかけました。しかし、イエスを最後まで十字架に縛り付けていたものは、人々に対する愛の綱であり、ついに「霊を渡す」絶命に至ったのです。
Ⅲ、代価が払われた救い
イエスが息を引き取られると、神殿の奥にある聖所と至聖所を隔てる幕が、上から下へと真っ二つに裂けました。聖い神と罪深い人間を隔てる幕が裂けたことは、イエスの身代わりの死によって、私たちが神に近づく道が開かれたのです。この一連の出来事を目撃していたローマの百人隊長は「この方は本当に神の子であった」と言うに至ったのです。 イエスを取り巻く全ての人の前で、神はイエスを死に渡されました。この時、この死が「救 い」であることを弟子たちでさえ理解することはできませんでした。
結 論
私たち人間の歴史は残念ながら罪の歴史であり、どんなに人の能力が進んでも変わる ことがありません。しかし、自分にもひそむ罪と真正面から向き合い、その結果得ることができる神の愛と赦しの尊さを知って生きることは大きな祝福です。愛するわが子イエスを代価として差し出し、永遠の滅びから救うほどに私たちを愛し、価値ある者としてくださる神の恵みをこころから感謝し、受け取りましょう。 |