2022年5月1日 主日礼拝メッセージ 「主の弟子マタイ」

メッセンジャー:仁科宣雄師

目次

「主の弟子マタイ」   ルカの福音書 5章27~32節 (マタイ9:9∼13)

私たちは何歳になっても人とかかわって生きることは大切なことです。自分の名前が呼ばれるだけでも刺激になるのに加え、自分が誰かのために生きる価値があると知って過ごすこと、それを使命と思って生きていけることは何よりの喜びであり、力となるでしょう。
復活されたイエスが言い残された「あらゆる国の人々を弟子としなさい」という使命は、若い献身者に対する言葉だけでないことを覚えつつ、この1カ月、主の弟子の姿を通して、神が私たちに望んでおられることを学んでいきましょう。

Ⅰ.マタイを招くイエス    ( ルカ5:27,マタイ9:9 )

「マタイの福音書」の著者マタイがイエスの弟子になった時の話です。
イエスは通りすがりのレビ(=マタイの本名)に目を留め、「わたしについてきなさい」と声をかけます。一方マタイも、躊躇なく直ちに応じたのです。多くの取税人が、社会的にさげすまれる職と承知の上で、「金さえあれば…」とこの仕事に就いていました。イエスは、マタイがそんな生活に心満たされていないことをご存知だったのです。
人の目には「なぜこの人が?」と見えても、イエスの側には召しの動機も理由も確実に存在しています。神は、みこころとその権威をもって、従う者を召されるのです。

Ⅱ.イエスの権威に応えるマタイ   (ルカ5:28∼29

イエスの招きにマタイは即座に応答しました。彼は、イエスの奇跡や語られたこと、また、同じ町の漁師たちがイエスの弟子になっていったことを耳にし、自分もイエスにお会いできれば…自分が変われるのではないかと期待するようになっていたのです。彼は主のまなざしと言葉に神の力と権威を認め、主の「弟子」として生きる決心をしたのです。
マタイは、イエスを家に招いて盛大にもてなしますが、イエスへの感謝と共に、仕事仲間をはじめ多くの人にイエスを紹介したいという思いからでしょう。「すべてを捨てて」も悲壮感はなく、彼の心は希望と喜びに溢れていたのです。日ごろから思い、考えていることに対して自分がどう行動するか、神の時に神のみわざが起こるのです。神の「招き」に対して、時間と共に必ず疑いや迷いが生じることがあるのです。だからこそ「主が私を召された」という事実がその「招き」を支え、諸問題に向かわしめるのです。

Ⅲ、罪人を救うために来られたイエス    ( ルカ5:30∼32 、マタイ9:10∼13)

マタイのもてなしにイエスが席を共にしたことを「パリサイ人…律法学者たち」は批判します。彼らの価値観に対してイエスは、医者が必要とされるのは病人であり、その病気の癒しを切に求める人に対して働くことは当然のこと。自分の罪を知ってそのままにできないでいる人たちの招きに応じることが当然と言い放ったのです。イエスにとって、「罪」こそがどんな病気よりも深刻な「病」であり、そのままにしておくことは断じてできなかったのです。
私たちは「加齢」による体の衰えを認めると同様に、心の中でも衰えが進んでいくことを知らなければなりません。もう年だから…相いれないことには距離をとっていること、面倒だから、しょうがないとあきらめてしまうのです。そのような心の思いに主は介入してくださり、たとえ何歳であっても心は日々新しくされるのです。

結  論      

イエスは自分では気づかない「罪人」である私にあえて近づいてくださるお方です。私たちにとって主の招きである礼拝において、罪を示され、赦される恵み、心を新たにされることの幸いがどれほど価値のあることなのか、自分がにぎりしめているものと比べてみましょう。どんな時にも「わたしと共に」と招かれる主のことばに信頼し、従ってまいりましょう。

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