メッセンジャー:仁科宣雄師
「神の愛による回復」 ( エレミヤ 29章 10~14節 )
「列王記」は分裂した南北イスラエルにおいて国の指導者として立てられた王たちの神との関係に強調点を置いている書です。はるか昔の外国の歴史を学んでも…その心の内を見る時、思い悩むことは同じであり、記されていない部分の感情を想像する時、喜びも悲しみも伝わってくるのです。その私たち以上に神のみ思いは、変わりません。
Ⅰ.エレミヤのメッセージ (エレミヤ38章1~28節)
南ユダにおいて、神の前に忠実な王がいる中で、神に背く王も多く、特にヒゼキヤ王の息子マナセの罪は致命的で、神はエルサレムの滅亡を予告しました(列王第Ⅱ21章)
ヨシヤ王の死後、王たちはまたもや神に背き、自分勝手に歩み出したのです。神は預言者エレミヤを遣わし、メッセージを与えるのでした。「あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。しかしそうでなければこの宮は北イスラエルの神殿シロのように滅ぼされる」との厳しい主のことばでした。
聞きたくない言葉に耳をふさいでも、問題は解決しません。エルサレムは北からのバビロンと南からのエジプトの戦いの場と化し、ゼデキヤは、もう一度主の声を聞こうとエレミヤに助けを求めます。神は、最後まで王に聴き従うチャンスを与えましたが、ゼデキヤは、人を恐れ、神を信じる信仰も、神に従う勇気もなかったのです(エレミヤ38:17,18)。
Ⅱ.ユダ王国の滅び (エレミヤ39章)
バビロニアはユダの国に攻め込んできて、ユダの王族や貴族を捕虜として、バビロ二アに連れて行きました。第1回、第2回と捕囚は続く中で、ユダの国はバビロニアの支配のもとで生き延びるのが主のみこころでした。しかし、王たちは反逆し、BC586年、バビロニア軍はエルサレムの神殿と王宮をはじめ、すべての建物に放火し城壁を破壊し、貧民を除く残りの民を捕虜として連行したのでした。事実上の滅亡です。
ここに神の罪への厳粛さを見ます。自分の力に限界を覚えた時、自分に都合の良い言葉に従おうとする心、それが弱さであることに気づかず、自分の知恵と力としてその場その場を通り過ごしていくことを神は、良しとされないのです。
神を心から畏れ、まったき信頼を傾ける以上の知恵はなく、それに従って生きる以外に「永遠に」という保証はないのです。
Ⅲ.希望の約束 (Ⅱ列王記25章27~30節、エレミヤ29章10~14節)
しかし神は、捕囚となった民に神のご計画を語られました。捕囚はまだまだ続く、この絶望的な状況が「わざわいではなく、平安を与え希望を与えるものだ」と、神を捜し求める者たちに、ご自身を現してくださるというのです。罪の結果は刈り取ることになります。しかし神は、その苦しみの中でも救いを求め、ご自身にすがる者を見放さず、共に生き、回復へと導いてくださるのです。
この時、初期の捕囚でバビロンに連れて行かれたのがダニエルであり、ペルシャに連れて行かれたのがエステルでした。彼らは捕囚という厳しい状況の中で、真の神に従い続けたのです。彼らが神に従い、真の神の祝福を表す器となったことは大きな励ましです。
結 論
どんなときも、どんな状態でも、神は私たちへの愛のご計画を進めておられます。私たちは、聖霊の働きによって悔い改めと信仰告白へと導かれ、先の見えない現代において、日々「揺り動かされない御国」に生かされている恵みを覚えル事ができるのです。さらに永遠に続く神の御国において、神と顔を合わし、礼拝できることが約束されています。この恵みを心から賛美し、伝え続ける者とさせていただきましょう。