2023年2月12日 主日礼拝メッセージ 「律法に立ち返る民」

メッセンジャー:仁科宣雄師

目次

「律法に立ち返る民」         (エズラ記  7章  21~28節 )

私たちは生活の中で同じ失敗を繰り返すものです。赦す方も赦される方もお互いを思う時、その失敗を認め、正すことで双方が成長できるのです。

Ⅰ.エルサレムへの第1次帰還(1~3章)

神の警告を聞かず、偶像礼拝という罪を犯し続ける南ユダは、その裁きとしてバビロニア帝国に滅ぼされ、多くの民がバビロンの地に捕え移されますが、その捕囚から70年後、神はバビロニアを制圧したペルシャの王の心を動かし、イスラエルの民にエルサレムへの帰還と神殿の立て直しという道を開かれたのです。

Ⅱ.エズラの帰還(7章~8章)

 その約80年後、再び、神は王の心を動かし、ペルシャに残っていたイスラエルの民の一部がエズラをリーダーに帰還します。エズラは、祭司の子孫であり、律法(みことば)の学者であり、自らもみことばを実行する信仰者でした。エズラはエルサレムに帰還したら、民に律法を教えようと心に決めていました。長旅を前に、エズラ一行は断食し,道中の安全を神に祈りました。護衛を要請することもできましたが、神の助けのみに頼る民たちの願いを神は受け入れて、敵の手から守り、無事にエルサレムへ帰還させてくださいました。

Ⅲ.律法に立ち返る民(9:1~10:5)

 ところがエズラは、民と神殿に仕える祭司やレビ人が異邦人と結婚していると知り、ぼう然とします。異邦人との結婚は律法で禁じられていることであり、神殿再建の歓喜から60年過ぎてもなお、同じ罪を犯していたのです(9:3.4)。新しい神殿が建てられ、礼拝がささげられていても、民たちの心は神に向いていなかったのです。人々がみことばによって示された罪を悔い改め、みことばに従って歩まなければ、本当の意味で神を礼拝することにはなりません。エズラは祈ります。服を裂いて神の御前にひれ伏し、涙ながらに民たちの罪を自分の罪として告白したのです(9:14,15)。そこに大勢の人も加わりました。そして、悔い改めたと同時に「律法にしたがって異邦人の妻とは離縁する」と実行に移したのです(10:2∼4)。これは非常に厳しい対処であり、大きな痛みを伴う決断と実行でした。しかし,この責任を民たち自身が負ったのです。主イエスが十字架の道を進まれるのをペテロが阻もうとしたとき、主は激しく叱責されました(マタイ16:23)。人間の心情や同情心に動かされることなく、「血を流して」私たちすべての人の罪の根を断ち切る決断をされたのです。エズラは、神を心から慕い、みことばに聴き従い、神と共に歩む共同体を育てていきました。それは、祭司の国としてのイスラエルの使命でもありました。祭司とは「橋をかける人」という意味があります。神と人をつなぐのです。この祭司の国を完全な形で地上にもたらされたのが大祭司キリストです。私たちクリスチャンは、また教会は、この祭司の役目を与えられているのです。

結  論

日常生活の失敗も含めて、私たちは周りの人に赦される以上に、神様に愛され、赦されています。私たちに与えられている日々の恵みと幸いが、自分一人にとどまることなく、家族に、愛する人々にと広がっていくことを、信じ待ち望みつつ、私たち自身が「霊とまこと」をもって主の前にひれ伏し(ヨハネ4:24)、神に赦されて生きる恵みを証ししていきましょう。

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