メッセンジャー:仁科宣雄師
「身代わりの十字架」 ( マルコの福音書 15章 )
「棕櫚の聖日」である今日から1週間を受難週として、主の御苦難を覚えます。 イエスを取り巻く様々な人々の心の動きを見ながら、私たちの心に潜む思いにも光を当てていただきましょう。マルコの記す一週間の出来事を中心に見ていきます。
Ⅰ.人々の罪と向き合うイエス
①神を恐れず、人を恐れる人々 (14章43~64節)
宗教指導者たちは、イエスへの妬みのみならず、自分たち宗教指導者としての存在の根底が揺すぶられることを恐れ、ついに「イエスを殺すしかない」と決断したのです。 弟子のユダはイエスをお金で売り、ペテロはイエスが予言した通り、「イエスを知らない」と言ってしまいます。泣き崩れる彼の心境は痛いほどわかるのではないでしょうか。
②.ピラトの保身による裁判 (15章:1~15節)
ピラトは、イエスに何の罪を認めも認めるはできないし、この訴えが指導者たちの妬みであることにも気づいていました。何とか自分の責任を回避しようとしますが、暴動になると恐れたピラトは、イエスを十字架につけるために兵士に引き渡したのです。
③.ののしりとあざけりを受けるイエス (15章:16~32節)
ローマ兵たちに「からかわれ(15:17~20)」、イエスは十字架を担いで刑場へ向かいます。衰弱し途中で歩けなくなったイエスの代わりにクレネ人シモンは十字架を背負わされました。この突然の不運、理不尽な経験も神のご配慮があったことを見ることです。 午前9時、十字架にかけられたイエスの下ではイエスの服を分けようとくじを引くローマ兵(詩篇22:18)、「他人は救ったが自分は救えない」などと罵る人々に、イエスのことばはありません(イザヤ53章)。 これまでの彼らの姿を見て、わたしはこのような人たちではないと言い切れるでしょうか。神はこのような私たちの心をご存じであり、その御心を痛めながらも、何とか愛し抜きたいと思うばかりに、イエス・キリストの上に私たち人間のすべての罪を負わせたのです。
Ⅱ.神と向き合うイエス・・・身代わりの死 (15章:33~47節)
闇と沈黙の3時間を破ったのは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とのイエスの叫び声でした。どんな時にも父なる神の御胸に信頼して飛び込み、「この苦しみは全て神のみこころに添っているのだ」という確信があったからこそ、裏切りにも孤独にも耐えてこられました。しかし、父なる神に「見捨てられた」断絶は、「なぜ、どうして」とその理性を超える、想像することのできない苦しみだったのです。 こうしてイエスは、全人類の罪の身代わりとして罰を受け、やがて息を引き取られました。 この時エルサレム神殿では、聖所と至聖所を隔てる幕が真っ二つに裂けました。神と人との間の隔たりが除かれ、イエスを通して、私たちは父なる神のもとに近づけるのです。 この十字架のイエスの正面に立っていた百人隊長は、このイエスを見て、「本当に神の子であった」と初めて信仰の告白ができたのです。
Ⅲ.埋葬 (15章:42~47節)
アリマタヤ出身のヨセフは、今こそイエスを「主」とし、その財力をささげ、イエスに繋がることの幸いを確信しつつ、イエスの御身体を埋葬したのです。
結 論
イエスが王であることの真の意味は、すべての人のために救いの道を成就し、牧者として神の国の民を治めるということでした。私たちは、「わたしのために御子イエスをこの世に遣わしてくださいました。この方こそ、神の子キリストである」と心から告白し、このイエスを真の王として心から喜び、お迎えいたしましょう。