メッセンジャー:仁科宣雄師
「永遠のいのちを信じる信仰」 (ヨハネの福音書 20章19∼31節)
本日の御言葉
見ないで信じる人たちは幸いです。
ヨハネの福音書 20章29節
春になり一斉に花が咲き出し、秋までは様々な品種が楽しませてくれます。たとえ冬になっても、必ず春になると…と、確かな希望です。この希望が「途切れる」という現実も避けて通れない私たちですが、この喪失感、絶望感を癒す「永遠の希望」が聖書、イエスの復活にあることを信じることができるなら幸いです。
Ⅰ.疑うトマス (20章19~25節)
復活されたイエスは、自分たちの命が取られるのを恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちに現れてくださいました。が、トマスだけその場にいませんでした。部屋に戻ってきたトマスに、彼らは主と出会ったことを興奮しながら話しますが、彼らの言葉を信じることができません。3年半一緒に生活してきた弟子たちの言葉、それ以上にイエスご自身を信じることができなかったのです。弟子たちが「見た」のなら、自分は「触って」みるというのです。これは、はなから疑ってと言うより、自分の思いをはるかに超えることに驚き、それが本当ならばとの願いからでした。
「疑い」そのこと自体は悪いことではなく、新しい発見・解釈が生まれ出ます。誤解や偏見が取り除かれ、良い結果を得る場合もあります。トマスは、自分だけ出会えなかった…疎外感、敗北感を覚えつつも、続いて「弟子たち」と仲間意識をもって留まり続けたのです。神への疑い、信仰の不満、霊的スランプなどは信仰の共同体である教会を離れては回復することはないのです。主は、トマスに自分の信仰と向き合う時間を与えておられました。
Ⅱ.見ないで信じる者の幸い (20章26~29節)
8日目、再びイエスは弟子たちに現れ、トマスに語られます(:27)。イエスは、彼の言葉、その心にある思いも全てご存知で、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、おっしゃられたのです。トマスの前に十字架の傷を負った両手を広げるこのイエスのまなざしはどのようだったでしょうか?二心に揺れるトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と決め切りました。信仰告白です。イエスは、トマスを叱責したのでも嫌味を言っているのでもありません。これから後、全ての人がこの選択を迫られますが、トマスを通して、その答え、模範を示すこととなったのです。
Ⅲ.信じる者に与えられるいのち (20章30~31節)
ヨハネはマリア、弟子たち、トマスたちの復活の主に出会ってからの変化を、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」と、結びます。今の私たち教会は、見て信じた人のことばを、見ないで信じた人たちが受け継いできたからあるのです。死を前にして、命の源である神のもとに帰れるという平安をいただけることこそ、本当に幸いな人生ではないでしょうか。NHKの朝ドラで幼い子どもたちにも「何のために生まれて、何のために生きるのか」考えて生きるようにと言われています。私たちは加えて、その最期は空しく終わらない、生きてきた証が生き続けるという恵みを与えられることは、幸いです。
結 論
私たちの人生が幸いであるようにと、神は愛するひとりごイエスを死んで甦えらせてくださいました。その主を信じて生きる人生は、空しく終わらないだけでなく、永遠に生きる希望が備えられています。目には見えなくても、主の臨在を信じてひれ伏す時、ご自身を現してくださる、生ける主との交わりを体験してまいりましょう。