2025年8月10日 主日礼拝メッセージ 「感謝と喜びの礼拝」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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 「感謝と喜びの礼拝」                   (サムエル記第Ⅱ 6章12~19節)

本日の御言葉
  感謝をもって 御前に進み 賛美をもって 主に喜び叫ぼう。
                          詩篇 95篇2節 

「悲しみを共にすること」よりも「喜びを共にすること」の方が難しいと言われます。その理由をお互いの心に問われることです。本来「喜び」とは、お互いに成長し、前に進める「力」となり得るものでしょう。自分の喜びがどこにあるのか、心を探りましょう.

Ⅰ、王となったダビデと神の箱  (サムエル記第Ⅱ 6・1~11)

少年時代に王としての油注ぎを受けていたダビデは、サウル王の死後、サウル家とダビデ家の抗争に勝利し、いよいよ王としてイスラエルを導きます(Ⅱサムエル5章)。勝利の凱旋行列を伴い、まず「神の箱」を遷都エルサレムに移すことを進めます。軍事的王に加えて、神的権威を持つ王としての姿を見せようとの考えもあったでしょう。ダビデは、神の臨在を示す「神の箱」を丁重に運ぶために最善の方法を考えました。が、神の箱を乗せた牛がよろけたため、ウザが神の箱に手をかけたその時、ウザが打たれて死んだのです。「神の箱に触れたものは死ぬ」という規定があったのは確かですが、ダビデは怒り、どうしてこんなことに?と考えつつ、主を恐れてひとまず別の場所に置きました。それから3カ月間、ダビデは主の前に祈り、心探られます。自分は成功した勢いに乗って、主の箱が華々しく祭り上げられ、自分の権威を高く見せるために利用しようとしているのではないか…と。ダビデは神の取り扱いの中で、主の神聖さと厳しさに向き合い、神の定められたことや清さを第一にすべきであったこと、何よりも神のことばを軽んじていたことを改めて教えられたのです。

Ⅱ.喜んで神を礼拝するダビデ    (6章12~23節)

ダビデは、再び神の箱を運び入れます。ダビデとイスラエルの全家は歓声を上げ、つのぶえを鳴らして神の箱を運びあげました。ダビデはレビ人たちと同じ亜麻布のエポデをまとい、肥えた牛を捧げ、主の前で力の限り飛び跳ねました。一方、彼の妻ミカル(サウル王の娘)はそんなダビデを蔑みます。彼が肌を露出させながら踊る姿を「王の威厳」をおとしめる行為だ、と皮肉いっぱいに言い放ちます。ダビデはミカルの言う「王の威厳」に目もくれず、自分をイスラエルの王として立ててくださった主を喜び踊りながら礼拝する恵みを感謝するのでした。神の前では自分はまさにごろつきのような存在でしかないことをわかっていたのです。ミカルには子がない=サウル王家の血は入らない、独立したダビデ王家を形成していくのでした。

Ⅲ.ダビデに対する神の祝福   (7章1~17節)

かつてはサウル王に追われ洞窟で生活していたダビデは、今、王宮で戦いもなく安息の中にあります。それを感謝する時に、神の箱が粗末な天幕の中にあるのは主に対して申し訳ないと思い、神の箱のために家(=神殿)を建てたいと願います。しかし、神は「ダビデ」が建てることを禁じます。自分のできる限りの力をもって神に喜んでいただこうとするダビデに、神はむしろ、「あなたのために一つの家を造る」と恵み深い約束(ダビデ契約)、祝福の言葉を告げました(11b~16節)。直接的にはこの言葉は、ダビデの息子ソロモンの治世に成就します。そして、この契約は究極的には神の時を経て、イエス・キリストによって成就されるのです(ルカ1:32,33節)。

結 論             

今、私たちは自由に真の神様を礼拝する恵みの中にいます。その姿が他の人たちにどのように映っているでしょうか?王としての威厳を保つことよりも、神への喜びを表すことを大切にしたダビデのように、私たちを礼拝へと招いてくださる主の恵みを感謝し、ダビデの詩歌のことばに声を合わせましょう。

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