2025年8月31日 主日礼拝メッセージ 「神を呼び求める者」

メッセンジャー:仙台国見教会 小泉創師

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 「神を呼び求める者」                   (マルコの福音書 9章14~29節)

本日の御言葉  
  できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。
                            マルコの福音書 9章23節 

1.弟子たちの信仰

イエスと3人の弟子たちが変貌山を降りてくると、残された弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれて律法学者たちと論じ合っていました。ある父親が子どもの癒しを求めてきましたが、弟子たちは答えることはできなかったのです。周囲には批判的な人たちもいたことでしょう。「そらみたことか」弟子たちを責め、弟子たちも自己弁護に走っていたのかもしれません。そんな、魂に関心を失ったような光景を前にイエスは嘆かれます。「ああ、不信仰な時代だ。・・」(19節)イエスは弟子たちの不信仰を嘆かれました。弟子たちが悪霊を「追い出せなかった」からでしょうか。

2.父親の信仰

もう一カ所、24節に「不信仰」という言葉が出てきます。「おできになるなら・・お助けください」と弱弱しく言う父親に、イエスは「できるなら、と言うのですか。信じる者にはどんなことでもできるのです」とおっしゃいました。それを受けての父親は叫びます「信じます。不信仰な私をお助け下さい」。悪霊を追い出せないばかりか、子どもをほっておいて議論をはじめる弟子たちの姿をみて、失望し、イエス様に対する信頼の気持ちがしぼんでいったのかもしれません。父親の心は深く探られたのです。「信仰がなく、疑ってしまうこの私を、大切なことの息子を、助けることがおできになるのは、イエス様あなただけです。目の前の弟子のたよりなさに失望したり、起きている現実の大きさや、長い間の苦労、疲れにのみこまれて信じ切ることができないこの私をお助けください。」神様にすがりつくその叫びをイエス様は受け止めて下さいました。子どもから霊を追いだして下さいました。立ち上がった子どもは、父と一緒に家路についたことでしょう。自分の不十分さ、限界を知らされたときから、神への信頼、期待が始まります。そして神様は素晴らしい方です。

3.いつも神に向かって

群衆が解散したあと、弟子たちは「そっと尋ね」ました。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか」(28節)。彼らは弟子としての面目が立たず失望していたのかもしれません。もう自分たちはイエス様の手をわずらわせなくてもできると思い始めていたのかも知れません。

イエス様は「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません」(29節)と教えられました。 弟子たちの不信仰とは、神の助けを求めずとも自分たちでなんとかなると考え始めていたことではありませんか。弟子たちがかつて悪霊を追い出せたのは、神の力だったのです。それが祈ることもなくなって、うまくいかないときはごまかして論争はするが、神様の前に不信仰を悔い改めることはしない・・。信仰の成長は、ますますイエス様に頼るようになり、多くの人とつながり助け合うこと。教会もつながっています。そこに豊かさがあります。私たち小さな者たちがささえられ、素晴らしいイエス様にますます頼っていくことができますように。

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