メッセンジャー:仁科栄子師
「み言葉に信頼する祝福」 (列王記Ⅱ 5章1~19節)
本日の御言葉
心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。
みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
ヤコブの手紙 1章21節
いつの時代も生きていくうえで「情報」は必要です。それが正しいか否か、信じるか信じないか…。知識、知恵、経験が増すほどに人の声、意見を聞くことにこだわりがでてきます。最後は良い意味でも自分を信じることになります。その自分にあるものは?
Ⅰ.ナアマンと召使のもてるもの (1~7節)
イスラエルの敵国、アラムのナアマンという将軍は、強いうえに思いやりがあり、みんなに愛され、王様からも尊敬されていました。「が」、重い皮膚病(ツァラァト)を患っていました。当時の社会では偏見の目で見られる病であり、いつ人に知られるか、不安と恐れが消えなかったでしょう。ナアマンの家で仕える召使たちはその悩みを知っていました。その中にいた一人の娘が女主人に「もしご主人様が私の国の預言者の所に行けば、きっと治るでしょう」と言うと、妻はそれを夫に伝えました。ナアマンは、召使のいう言葉に望みをかけ、動いたのです。その娘は、アラムがイスラエルと戦って勝った時、捕虜として連れてこられ、ナアマンの妻の召使として仕えていました。全てが奪われた人生でした「が」、彼女には真の神の愛と希望があったのです。それを生かしたのです.
Ⅱ.預言者エリシャの言葉に従うナアマン (8~14節)
この時イスラエルでは、預言者エリヤに代わってエリシャが預言者として、神のことばを伝えていました。王がナアマンのことで衣を裂いた、と聞いたエリシャは、王のもとに人を遣わして、ナアマンを自分の元へ来るように伝えました。こうしてナアマンはエリシャの家に着きました。が、エリシャは出迎えることをせず、使いの者が「ヨルダン川に7回、その体を浸せばきよくなる」と告げるのです。この塩対応にナアマンは激怒します。エリシャが直接手を当てて直してくれるのではないのか…、しかも、小さい濁った川で身体を洗えとは、侮辱されたも同然です。直ちに帰ろうとするナアマンに家来は進言します(:13)。家来はナアマンがその治し方にこだわっていることに気づいていました。ナアマンにとってエリシャの命令はあまりにも簡単すぎたのです。「馬鹿にされた!」と思い込むナアマンは、自分の思いに気づかされ、家来の言葉に従い、ヨルダン川に行き、体を洗ったのです。すると7度目、その体は幼子のようにきれいになったのです。
Ⅲ.ナアマンの信仰告白 (15~19節)
この驚くべき奇跡を体験したナアマンは、すぐさまエリシャの元に「引き返し」ます。エリシャの顔を見ない中で、一人激怒し、思い返し、癒された…、今、エリシャを前にして「イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました」との信仰告白が引き出されたのです。彼は、自分の国に帰っても真の神にいけにえを捧げるための祭壇を造ろうと考えます。そして、どうしても主君の介助のために偶像礼拝に携わなければならないことの葛藤をエリシャに告げますが、その信仰は神に受け入れられることを信じて行きなさいと励まされるのでした。私たちも直接神が見えない中で、神を疑い、時には反発し、見捨てるような思いに陥ります。しかしそこで確かに主がおられ、働かれていることを信じているでしょうか?
結 論
私たちは「ただ信じるだけで救われる」、簡単すぎるこの主のみわざを体験しているでしょうか?目の前に主がご臨在することを覚え、その主の前にへりくだり、主が救い主イエスを通して私を愛していてくださること、前に進む力を与えてくださることを確信して、主のことばに従ってまいりましょう。