2022年 7月 3日 礼拝メッセージ 「サウロの回心」

メッセンジャー:仁科 宣雄師

目次

「サウロの回心」              ( 使徒の働き 9章  1~22節 )

 勢いのある人を、蹴落とそうとするその力は相当なものです。時に、非道な、卑劣な手段をもってつぶしにかかります。「イエスを神の子、救い主」する教会に対して、宗教指導者たちの迫害の徹底ぶり、すさまじさを見る時、改めて教会の宣教の勢いを想像することです。その迫害の先頭に立っていたサウロが、イエスに出会い、新しく変えられたのです。

Ⅰ.サウロの熱心      (9:1~2)

 サウロは生まれながらローマ市民権を持っており、豊かな教育環境の中で育ちました。律法を厳格に守ろうとするパリサイ派に属し、熱心なユダヤ教徒でした。彼らは旧約聖書に記される神のみを信じ、救い主として世に送られた神の御子イエスを認めることはしません。イエスを神の子とし、救い主と言い広める使徒たちは律法を守らない罪人であり、心情的にも神を冒涜する者として赦すことができなかったのです。サウロにとって、クリスチャン迫害は、神への熱心、忠誠心の表れでした。
 どんなに神への情熱にあふれ聖書にも熟知していても、神のみこころを誤解してしまう危険があることを覚えましょう。加えて、サウロは自分の思い込み・正義感に縛られていたのです。そんなサウロに、イエスが出会ってくださいました。

Ⅱ.想定外の出来事      (9:3~7)

 もうすぐダマスコという所で、突然、強烈な光がサウロを照らし、彼は倒れました。神のためと言いながら、実は自分のためではないか。自分が熱心に学んでいるからこそ、それを否定することは自分を否定することにすり替わっていたのではないか。サウロは光の中で、神であるあなたはわたしの「主」であることを示され、その主は、「イエス」であることが見えたのです。
 イエスは、クリスチャンたちへの迫害をだまって眺めているのではなく、その痛みを受けてくださっており、彼らが命がけで、証言しているわたし(イエス)は「確かに生きている」と、ご自身で証しされたのです。彼は、3日間目が見えず、食べることも飲むこともしません。目が塞がれることによって、サウロは自分の熱心や知識からの判断に頼れない状況に置かれました。この暗闇の中で、祈り始めることができました。

Ⅲ.迫害者から宣教者へ      (9:10~22)

 主はダマスコにいた弟子のアナニアに、サウロのもとに向かうように命じます。アナ二ヤは不安を覚えつつも、サウロは多くの人々にイエスを伝えるために神がお選びになった者だからと、サウロを訪ね「兄弟サウロ」と呼び、優しく語りかけたのです。するとサウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになりました。サウロは直ぐにバプテスマを受け、イエスを信じる弟子たちの仲間となったのです。人の救いには人が用いられます。アナニアは、サウロの肉体の目が見えるようになることに用いられました。新しい歩みをさせてくださるのは主の御霊です。サウロはダマスコの諸会堂で大胆にイエスを救い主と証言するようになりました。この後、だれもが驚くだけでは済まないこととなるのですが、サウロは神の「選びの器」として新しい歩みを始めることとなるのです。

結  論 

 神は私達にも導く人を備え、それぞれの方法で主に出会わせてくださいました。そして、新しく造りかえ、使命を与えて用いようと願っておられます。主のご計画は、私たちの思いをはるかに超えています。「わたしが」ではなく、聖霊が導かれる、その導きを祈りのうちに待ち望みつつ、新しくされた者として主のわざに加わらせていただきましょう。

アーカイブ

目次