2022年4月3日主日礼拝メッセージ 「 足を洗い合う愛 」

メッセンジャー:仁科宣雄師

目次

「 足を洗い合う愛 」     ( ヨハネの福音書 13章1~17節) 

新年度、新入社員を迎えて先輩たちは後輩たちに教えていかなければなりません。心得とか仕事人としての信条など、言葉では伝えにくいことが多いのですが、模範としてハンコを押したような人ではなく、人間性のある「素」の姿に魅力ある人が慕われるでしょう。
今日は受難日の前日の夜、最後の食事の場で行われたイエスの驚くべき行為から学びます。その行為に目を留める以上にその行為に及ばれたイエスの心を見ていきましょう。

Ⅰ.愛をもって仕えるイエス   (:1~5)

 過ぎ越しの祭り(受難日)の前日の夜、イエスは弟子たちと昔先祖たちが過ぎ越した時と同じ「特別な食事」をなさいました。イエスは「ご自分の時が来たことを知っておられ」「彼らを最後まで愛された」と、ご自分の愛を最大限に示そうとこの場に臨まれていたのです。
 当時、草履で歩いた足は汚れているため、その家の召使が客人の足を洗う習慣がありました。しかしこの時は借りた部屋だったので、奴隷はいません。部屋中に土埃が舞う中で、弟子たちはこの中の誰が一番偉いかと言い合っていましたから(ルカ22:24)、足の汚れなど考える余地はなかったようです。その時、突然イエスが立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰に巻いて、たらいに水を張って、弟子たちの足を洗い始めたのです。

Ⅱ.洗いきよめるイエス   (:6~11)

 ペテロは、「私の足は洗わないで」と、ペテロらしい謙虚で麗しい辞退の言葉にとれますが、私だけはあなたに足を洗っていただくような恩知らずではありません、と心で叫んでいるようです。イエスは、洗足は全ての罪を赦し、交わりを持つ意味があること。それは、主だけがなしうる御業であり、それを拒むならわたしとは一切関りがなくなることを覚悟するよう、厳しく答えます。それなら、「手も足も」と申し出るペテロに、「すでに全身洗っているのだからきよい」と、イエスはこの後、彼がイエスを裏切ることも承知の上で、師に従う姿勢に偽りがないことを重んじ、評価されたのです。しかし、この時すでに「悪魔に」支配されていたユダは、この点が違っていたのです。

Ⅲ、わたしに倣って   (:12~17)

 イエスは、屈辱の死が何時間後に迫っていることを知っておられたと同時に、神より万物を委ねられ、父の栄光を現わす時が来たという誇りに満ちておられたのです。無上の誇りを感じた時、同時に無上の謙遜を示されたのです。イエスは弟子たちに、今まではわたしが主であり、師であるわたしに従って働いて来た。しかし、これから私がいなくなる時、神の働きという大きな使命を全うするためには、自分の尊厳、威信、地位、立場を考えそうになる時こそ、こうしてわたしが足を洗ったことを思い出し、あなたがたも互いに洗い合いなさい、仕え合いなさいと命じられたのです。「全身がきよい」とされても、日々汚れる「足」は毎日洗う必要があります。主との交わりを深め、「今日も精一杯働いて、たくさん汚れました」と、じっとしていれば人との摩擦はなく罪を犯すことも少ないかもしれませんが、人と関わることで見えてくる罪の姿を差し出して、洗いきよめてくださる主の恵みを体験しましょう。

結  論  

 「信仰継承」のために祈る私たちは、主にある模範を示し続けることが必要ですが、それは、主の愛を受けてこそでき得ることであり、その主の愛は「こんなわたしのために」お仕えして下さる主の姿を覚えることによって受けることができるのです。さらに主は、私たちの罪をきよめるために十字架を選び取って行かれます。主に倣う者となれるよう、日々、主の 愛に生かされ続けましょう。

アーカイブ

目次