メッセンジャー:仁科宣雄師
「 惜しみない捧げもの 」 ( マルコの福音書 14章3~9節)
日本人の「律儀」、受けた義理は必ず返すという性分は、良い意味で使われることが多いのですが、気を付けないといけないのが、受けた分は返したのだから恩は受けていないと一線を引いてしまうことです。傷つき、苦難の時に受けた恩は、決して義理でお返しをする気持ちにはならないでしょう。本当に喜びと感謝を覚えてのお返しはお互いの関係を強くし、力あるものとなっていくでしょう。
Ⅰ.「この時」を知るマリヤ
イエスはご自身の最期の働きに心を定めてエルサレムに入られましたが、受難週の半ば、ベタニヤ村に滞在されていました。シモンはイエスを食事会に招き、マルタも呼ばれて手伝いをしているところに、マリヤが小さなつぼを持って入ってきました。マリヤはイエスに近づくとそのつぼを割り、中に入っていた香油を全部イエスの頭に注ぎかけたのです。人々が驚き、怪しむなかで、イエスはマリヤがやがて死んで葬られるわたしのために前もって香油を塗ってくれたのだとおっしゃいました(:8)。マリヤは、これから起こることを全て理解していたわけではないでしょう。しかし、いつもイエスのおことばを熱心に聞いていたのでイエスの身に何かが起こることを予感し、導かれたのです
Ⅱ.「できるかぎり」の感謝を表したマリヤ
それは、大変高価な香油で、彼女が一年間働いて得られるほどの収入に値するものでした。彼女はこの香油をいつの間に、何のために買っていたのでしょうか?イエスが彼女の兄弟ラザロをよみがえらせたことも大きかったでしょう。しかしそれだけでなくいつも人々に深い愛情を示されるイエスに心からの尊敬と愛情を示すだけでなく、この主のお役に立ちたいと切に願っていたのです。 香油は花嫁道具の一つでもありました。マリヤは、それを主に注いだ時、花婿なるイエスに自分自身の生涯をささげ、心を尽くすという決意があったのです。
Ⅲ、「主のために」捧げたマリヤ
マリヤのこの行為に対し、弟子の何人かの者が非難します。確かに正論ですが、内実はイエスのことを思いやる心はなく、彼女のイエスへの思いをくみ取ることもできませんでした。主は、マリヤの行為の意義を正確に見抜き、「わたしのために」した「良いこと」であるとおっしゃったのです。彼女の行為はイエス=神にささげられたものであり、無限の神にささげられるものは人の目には無駄のようでも決して無駄ではないのです 1000年前、預言者であり祭司であるサムエルはダビデに油を注いでイスラエルの王としましたが、ここでは、ベタニアの女が「ダビデの子イエス」に油を注ぎ、神の国の王キリスト=油注がれた者としました。この時家いっぱいに満ちた香油の香りは、この後続くイエスの苦しみの場において漂い続けたことでしょう。人々はナルドの香油を罪人の「死」の腐敗を消す香りとして記憶にとどめたことでしょう。
結 論
多くの人の目に「日曜日ごとの礼拝」「献金」など無駄な時間であり、もったいないと 映るでしょう。しかし、主に愛され、主を愛することの意味を知る私たちのできるかぎりの捧げもの、感謝のささげものを主が喜んでくださることを覚えましょう。そして、それらが、一人の人の救いに繋がることを信じて惜しみなく捧げてまいりましょう。 |