2022年3月20日 主日礼拝メッセージ 「 祈りの家なる教会 」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「 祈りの家なる教会 」    ( マルコの福音書 11章15~19節) 

コロナ禍にあって教会の行事の持ち方が大きく変わりました。礼拝は欠かせないものとして全教会がささげ続けてきましたが、愛餐に始まる交わり、お祝い、伝道の仕方を問われてきました。午後の時間が自由になり、礼拝を捧げていればそれで充分と思われる人も出てきましたが、それらは必要ないのではなく、礼拝につながる大切なプログラムです。今日の箇所を通して、教会の在り方を一致したものとさせていきましょう。

Ⅰ.イエスの宮きよめの断行      (11:15,16) 

イエスは、神の救いの計画を進めるためにエルサレムに入ったその翌日、再び神殿を訪れると、激しく怒り、売り買いしている人たちを追い出し、商人や両替人の机をなぎ倒されました。礼拝で捧げるいけにえのためにと、手数料を取ってローマの貨幣をユダヤのお金に変える両替人、かなり高い値を付けた家畜を売る商人たちにとって、過ぎ越しの祭りの期間は遠方から訪れる人も多く、商売のかき入れ時でした。そして、それらをイスラエルをきよめる役割の祭司、大祭司たちが容認し、不当に利益を得ていたのです。これまで柔和で寛容なイエスが、なぜそこまで怒られたのでしょうか?

Ⅱ.怒りに見る本性      

①イエスの怒り…神へのきよい捧げ物が「高値」となり、貧しい人をないがしろにしていること、この売買が「異邦人の庭」で行われ、彼らの礼拝が阻害されていることなど、神との交わりを回復する場である神殿が、人間の理屈によって強盗のたまり場になっていることに対して聖なる怒りでした。この怒りは、数日後には自らを死に明け渡す行為に至りました。
②祭司長たちの怒り…イエスの怒りに対し、「何の権利があって」と怒ります。自分たちの立場、利益を失うことを恐れたと同時に、立派な信仰者と見せかける偽善、欺瞞自己中心の姿でもありました。その怒りは、「イエスを殺す」という発想に至るのでした。
 私たちが怒る時、その心の思いを探られます。喜びの日である日曜日が、お互いひそかに怒りの日にかわることはないでしょうか。真の礼拝を捧げる時、「自分の思い」と「神のみこころ」がはっきり示され、神の栄光のためにという選択へと導かれるのです。 

Ⅲ、「祈りの家」として回復    

主イエスは神の国を、まず、ご自分の中に回復するため来られました。イスラエルの信仰の荒廃は、神の都エルサレムに現れ、エルサレムの霊的鈍感は神殿に現れていました。逆にイスラエルの信仰の中心である神殿が汚されたがゆえに、イスラエル全体が汚れたともいえるかもしれません。主イエスは復活後、神の国の祝福がエルサレムから始まり、地の果てにまで広がると予告なさいます。そのために、まず神殿を「あらゆる民の祈りの家」として回復されようとされたのです。

結  論  

礼拝が、本当に神への礼拝として捧げられる時、神は私たちに常に新しいチャレン ジとそのための力を与えてくださいます。自分のためだけではなく、自分たちだけのためでもなく、あらゆる人々の救いのためになすべきことを示し、主がそのわざを進めるべく、私たちをこの世に遣わしてくださるのです。私たちの思いを一掃し、きよめてくださる主のみわざに期待して、毎週の礼拝をささげてまいりましょう

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