2022年3月13日主日礼拝メッセージ 「 平和の王の入城 」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「 平和の王の入城 」    ( マルコの福音書 11章 1~11節) 

誰もが平和を願いつつも、今に至るまで世界の中で戦争がない時はないと言えるでしょう。現在のヨーロッパにおいて権力闘争とも言える厳しい戦闘に悲しみと憤りがこみあげてきますが、聖書の時代から、神に選ばれた神の民・神の都「イスラエル」を中心に様々な戦いが続けられていることは、私たち純粋に聖書を信じる者にとって大きな疑問であり、祈りの課題です。

Ⅰ.神の国の王イエス  =「信」    

イエスの入城を、人々は上着や木の枝を道に敷き熱狂的に迎えました。イエスを来たるべきメシヤ、ローマからの解放者とし、かつてイスラエルに栄光をもたらした「ダビデの国」を、今こそ再興する時とイエスに期待し、興奮しつつ叫んだのです。この入城は、創造の始めから神のご計画が成就する日を迎えたことを意味しています。エデンの園において、最初の人アダムとエバが神に反逆したことで、最初にあった「神の国」が失われ、サタンによる罪と死の支配が始まったのです。同時に神は、キリストがサタンの国を打ち破り、神の国を回復するという宣言もされています。日本においては一見平和な国でありますが、私たちの心の平和を問われたらどうでしょうか?「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝」できる心は、この世だけでなく、信仰による神の国に住んでいることの表れでもあります。この確かさを覚えましょう

Ⅱ.平和の王イエス  =「望」    

当時、王は軍事力を象徴する「馬」に乗るのが普通でした。イエスは、ゼカリヤの預言(ゼカリヤ9:9,10)のとおり、「ろばの子」に乗って入城されました。ろばは、多くの荷物を載せて運ぶ力持ちであると同時に、「平和の主」であることを示しています。使徒たちも主に倣い、馬=武力ではなく、子ろば=平和によって宣教を進めました。迫害を受けながらも、遥かなる天の都において再びイエスにまみえるという永遠の希望をいだきつつ、その使命を全うしたのです。

Ⅲ.礼拝の王、愛と忍耐の王として  ―「愛」  (:11)

イエスは、まず神殿に向かわれました。「すべてを見て回り」、さばき主として思うところがあったようですが、その場を出て行かれました。夕方でもありましたが、この一晩を神殿にいる人たちに、イエスを前にして罪に気づき、悔い改める時間として与えられたのです。イエスの入城に対して、人々の期待と誤解、権力者たちの憎悪と陰謀が交錯します。しかし、主イエスは、神との深い祈りの中で本来のゴールを定め、愛と忍耐をもって、これから起こる神のご計画をその身をもってスタートされたのです。

結  論  

私たちは世のあまりにも大きな力に、神のご計画にある「平和の王国」が、聖書の薄っぺらい紙に書かれた空論であるかのように思わされる時があります。事実、イエスの死と復活の後、人々の罪の姿は何一つ変わっていません。しかし、自分がキリストにあって救われ、新たな人生をいただいて歩んでいるというこの事実を確信する時、主にある私たちが平和を作り出す一枝となれるとことを信じて祈り続けましょう。主は「あなたがお入り用なのです」と求めておられます。まず、自分に、そして、家族、隣人に…身の回りで行える「信・望・愛」のわざを捧げてまいりましょう。

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