2022年1月16日 主日礼拝メッセージ 「 待ち続ける愛 」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「 待ち続ける愛 」    ( ルカの福音書 15章11~32節 )

聖書の時代と今では変わった事は多くはありますが、「職業」における偏見は変わらない一つではないでしょうか?当時のユダヤ社会は、特定の仕事・立場にいた人を「罪人」と見なしていました。そんな罪人と見下された人たちがイエスのもとに集まってきました。パリサイ派の宗教指導者や律法学者たちは、律法を盾にイエスを非難しますが、そんな彼らに「天における喜び」のたとえが語られます

Ⅰ.相手を尊重する愛   (15 :11,12)

 弟息子の「財産を分けてくれ」との要求は、その権利はあるものの、まだ生きている父に対して「あなたは私にとって死んだも同然。これからはあなたの保護を受けずに生きていきます」と宣言したようなものでした。しかし、この父親はその要求をすんなりと受け入れます。父なる神が一人ひとりを尊い一人として造られた「愛」の表れです。この神の愛に気づかず、自分の楽しみを求める私たちを、神はねじ伏せて従わせるお方ではないのです。実際、自分の子どもが悪い道にそれていくのを見過ごすことはできません。愛情ゆえに何とか手を尽くす中で、支えとなるのは、子どもの人格を尊重して下さる神の御手の中にあることを覚え続けることではないでしょうか。

Ⅱ.待ち続けていた父の愛

 多くのお金を得た息子は、自由で新しい生活を手に入れたようにはじけますが、その理由は「お金」であることに気づかず、お金を使いはたした時、初めて自分のみじめな姿を見ることができました。孤独と空腹が襲います。豚の世話をもって彼を助けようとする善意においても、その真意は彼に屈辱を与えるためであったようです。彼は、悔い改めつつ考え、ついに父の家に帰る決意をするのでした。家に向かう弟息子を、父はいち早く見つけ、駆け寄り(当時は長衣で走ることは恥とされていた)、何度も口づけしました。この父の真実の愛に打たれ、真に悔い改め、父の権威と支配のもとに戻ることを自らの意志で選び取ったのです。父は息子を自分の後継者として認知させ、地域をあげての祝宴を催しました。死んでいたも同然の彼を「生き変えらせ」たのは、彼が、死んだも同然と言い渡した父、ひたすら弟息子の帰りを待ち続けていた父の愛に他ならなかったのです。

Ⅲ.すべての人の帰りを待ち望む父     25~32節

 畑から帰ってこの騒ぎを聞いた兄息子は、不満をあらわにし、家の中に入ることを拒否します。父は自ら近寄り、彼に声をかけ、心砕いて兄の気持ちをも取り戻そうとします。「自分は、戒めを一度も破ることなく真面目に父に仕えてきた。それに対し、『あなたの息子には…』」と、兄はいつもこの父の大きな愛と保護のもとにありながら、出て行った弟と同様、その心は父から離れていたのです。父は、兄を説き伏せることはなくもっぱら父の愛を注ぎます。「私のものは全部おまえのものだ」と告げ、真実な親子関係にあることを示すのでした。

結  論

 私たちを神の愛から離れさせようとする誘惑は誰にでも及びます。父なる神から離れている自分に気づき、どんな時にも待ち続けておられる神のもとに悔い改めて帰りましょう。日々の歩みを守り、愛されている確信を持って歩めることの大きな恵みを告げ広めてまいりましょう。

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