メッセンジャー:仁科 宣雄師
「天国に行く唯一の道」 ( ヨハネの福音書 14章 1~14節 )
「仲介業」という仕事があります。仲介を依頼する理由は様々ですが、、自分と相手との間に大きな違いがある場合にはどうしても必要となってきます。聖書にも「仲介者」という言葉が出てきますが、重要な言葉です。
神と人は「聖さ」において、「能力」において、「愛情」において全く異なる性質であり、神の前に人間が無力であることを覚えることが必要です。しかし神はそれをもって優位に立ち、人間を支配しようと思われているのではありません。「仲保者」をたてて共に「いのちの尊さ」を覚え、生きている喜びを分かち合いたいと願われているのです。その思いをイエスキリストによって表されました。
Ⅰ.備えられている住まい (1~4節)
イエスが十字架の死を前にして最後の晩餐の席を設けられ、その席上で告別説教をされました(13~17章)。師であるイエスが見知らぬ場所へ行ってしまうのではないかと動揺する弟子たちに、イエスは「心を騒がせず、神と自分を信頼するように」と命じられます。私たちのために用意されているのは、神の慈愛と恵みにおける無限の広さと無量の包容力を有する安住の地であり、父なる神の家なのです。
「私はこれから死にます」と言われるイエスが、蘇られることをも意味しており、それほどまでにイエスは「私がいる所にあなたがたもいる」ことを望んでおられるのです。
Ⅱ.道、真理、いのちであるキリスト (5〜7節)
イエスはこれまで「わたしをお遣わしになった方のみもとにいこうとしているのであり、父なる神とわたしは一つである」と語っていましたが、弟子たちはそれを理解していなかったのに加え、イエスが通ろうとしている道には十時架があるということなど想像していませんでした。トマスの質問に「私は道であり、真理であり、いのちです」と答えます。
真理やいのちは、人の思いや計画から生まれることはなく、実は神ご自身から発するものです。私たちは神のもとに行くことによって、真理やいのちにあずかることができます。そして神に至る道はイエスご自身であられるのです。
Ⅲ.イエスに見る神の姿 (8〜14節)
「父を見せて下さい。そうすれば満足します。」と求めるピリポにイエスは、「わたしを見たものは神を見たのである」と答え、それを信じなさいと答えられます。イエスは、ご自分が父なる神と一つのいのちであり、切り離してもお互いの命を持ち合わせる、密接なつながりと一口では言い得ない、本質的に一致する親子の関係であるとおっしゃるのです。
イエスは3年半という短い間で神のみわざを行いましたが、十字架の死による最期、そして復活を通してイエスの働きが完全なものとなり、人にはできない神の命を与えることができました。さらに天に昇られる代わりに、聖霊による神の来臨を約束され、共に働く神として、弟子たちに力を与え、神の救いは告げ広められていったのです。私たちは聖書の中の主イエスを信じるなら、父なる神の命に生きることができるのです。
結 論
現代は多様性の時代でどの思想や宗教も平等に価値があるという風潮が見られます。そんな中、「私を通してでなければ、…」との主張は、反発を招きかねません。しかし、このイエスこそが「道・真理・いのち」であることを再確認し、多様性の今だからこそ、「天国に行く唯一の道」を「福音」として伝えていきましょう。