2023年3月26日 主日礼拝メッセージ 「結実の恵み」

メッセンジャー:仁科 宣雄師

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「結実の恵み」         ( ヨハネの福音書  15章  1~17節 )

現代は「結果」を求められる社会です。年々、その質とスピードも求められています。では、一人の人生にとっての「結果」としては何が求められるでしょうか?命においては「苦しまず、穏やかに」でしょう。そして、財産、偉業、家族と続きますが、そのような事以上に、故人の人となりや言語録など、残された人の「心」に届くものではないでしょうか。

Ⅰ.豊かな結実のために ー 欠かせない栄養   (15:1~8)

イエスは、弟子たちになじみの深いぶどうの木を例にあげ、ご自身を「ぶどうの木」、父なる神を「農夫」、そして弟子たちを「枝」とし、大切な真理を話されました。この3者が一つとなって実は結ばれます。切り取られた枝だけでは実を結べません.枝がいのちを有する木から養分を得て成長し実を結ぶように、わたしにとどまり続けるなら、わたしから愛と恵みを受け、多くの実を結び、とどまらないなら、水も養分も届かず、どんなに努力しても全て無益となると断言されます。新改訳では「繋がる」が「とどまる」と訳されていますが、とどまるとは、イエスの愛と恵みに満たされるだけでなく、イエスが父の戒めを守られたように、主イエスの戒めを守ることです。決して頭の中だけでつながることではなく、心と体全体でつながることです。体でも礼拝し、賛美し、愛し、行動するのです。

Ⅱ.豊かな結実のために ー農夫による刈り込み   (2、6節)

 旧約時代、神に栄光を帰さなかった多くの罪に対する神のさばきは厳しいものがありました。主イエスは、その神は、今もなお神の民を愛し、神の愛に生きる民を求めておられる。そのために今、私が「真のぶどうの木」として根をおろし、この木に繋がっているならば、実を結ぶことができると新しい道を開いて示してくださるのです。
主は、何かを基準として人々を比較し、出来の良い者を残し、悪い者を排除しようとされているのではありません。神のなさる刈り込みは、私たち一人ひとりがそれぞれの人生で最善の実を結ぶためのお取り扱いです。それは、試練のように思え、痛みを伴う場合があっても、信仰者が人生で豊かで有意義な実を結ぶために欠かせない、神の愛情あふれるご配慮なのです。枝の目的は豊かに実をつけることです。よく茂った枝を刈り込むことは、もったいないと思えますが、多くの実をつけるためには不可欠なのです。

Ⅲ.実を結ぶ人生

 イエス自身が結ぶ実は、成功、繁栄という結果とはかけはなれた姿でした。それは、
①主の願いの実現(7節)…イエスの使命は父なる神のみこころに従うこと。私たちは「キリストの心をもっています(Ⅰコリント2:16)」と自信を持って言えるでしょうか?
②主が栄光をお受けになるイエスにとってことがイエスにとっての最終目的でした。
③愛の実を結ぶ(9~17節)…イエスにとどまることの実は「愛」です。最も偉大な愛は、「友のために命を捨てる」ことです。イエスは、ご自身が命を捨てることで私たちが「互いに愛し合う実」を結ぶ者となるとおっしゃいました。神に愛されて、尊い者、高価な者とされた私たちは、人を愛することで、人に生きる意味と価値を与えることができます。目の前におられるどんな一人をもその価値を認め、神の愛を分かち合いたいと願うその祈りを神は聞かれ、神のみわざを起こしてくださるのです。

結  論                                               

人と人とのかかわりの中で生きていく私たちにとって、互いに愛することができることは 大きな力です。また財産とも言えるでしょう。十字架の死を直前にして、ご自分をいのちの木として差し出されたイエスの枝として、愛の実を豊かに結ばせていただきましょう。

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