2022年1月2日 新年礼拝メッセージ 「 主にある赦し」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「 主にある赦し」            ( マタイの福音書 18:21~35)

新年を迎え、新たな思いで一日一日を過ごそうと思わされます。その「思いを新たに」とはどういうことでしょうか?主にあって昨日までの出来事、思いを一掃していただき、感謝と反省をもって、今日の一日、一週間、ひと月、一年と区切りをつけて前に進めることは、真の意味での「心新たに」です。

Ⅰ.赦しは数えるものではない  (18:21,22)

イエスが教会について語っておられるところでのペテロの質問です。「兄弟が、わたしに対して」と切り出しました。親しい関係でこそ深刻な問題となり得ます。
「罪を犯した場合、7度までは赦すべきでしょうか?」と問います。ペテロにとっては、自分は立派な者だと考えたのでしょうが、イエスは、7の70倍と答えられました。これは何度でも際限なく赦しなさいと言う意味であり、たとえで「赦す」ことの本質を教えられました。    

Ⅱ.「あわれみ」による返済免除=赦し     (18:23~34)

家来(私たち)は、王(神)に約60兆円もの借金(罪)を免除されたにもかかわらず、自分が貸していた人が100万円を返せないのを赦せないという、家来のとった態度は、「法」に正せば当然でしょう。しかし、王(神)の赦しは、「法」による赦しではなく、王自身がその負債を負われたのです。それは愛するわが子を十字架の死に渡すというお苦しみでした。その代価によって私たちのすべての罪が赦されただけでなく、罪の報酬としての永遠の死からも免除され、永遠に生きる者とされたのです。この「赦し」は神だけができ得るもので、私たちがお互いの罪を法的に「赦す」ことはできません。しかし、神に罪の赦された者として、罪人を「あわれむ」心を持つことができるのです。また、正しい道に導くことが求められているのです(Ⅰヨハネ5:16∼⒛)。

Ⅱ.天の御国で問われること   

今日のたとえは「天の御国」を基準として語られています。私たちは必ず、神の前に立つときがあるのです。その時、「わたしのすべての事をご存知の神が、そのあわれみによって私の罪を赦し、自由に生きることをも許されました」と心から告白することを神は望んでおられるのです。「神に赦された者」として、他人の過ちを憐れむことができるために、常に主は共にいて助け、導き、力を与えてくださいます。自分が正しい時ほど主に祈り求める必要があるのです。

「平和の祈り」   アッシジのフランシスコ(※諸説あり)
主よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を
主よ、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを 理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを私が求めますように。
私たちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に永遠のいのちをいただくのですから。

結論

「与え得る者・赦し得る者」の群れとして教会の姿を現してまいりましょう。

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