メッセンジャー:仁科 宣雄師
「心を燃やす主のことば」 ( ルカの福音書 24章13~35節 )
「朝日と夕陽」、そのどちらもに「美しさ」があると同時に「力」があります。「エマオの途上」と言われる今日の箇所は夕暮れの出来事です。エマオとは、「温かい井戸」という意味がありますが、まさしく復活の主は、温かく、優しく、人に寄り添ってくださるお方です。
Ⅰ.失意と行き詰まりの中で (24:13~16)
イースターの朝、間近にいた人たちはイエスの復活をすぐに信じることができませんでした。その日の午後のことです。エルサレムから西に徒歩で二時間ほどのエマオという村を目指して、二人の弟子が歩いていました。二人は歩きながら、十字架の出来事について論じ合っていました。彼らはイエスに大きな期待を寄せていました。それなのに、イエスは犯罪人として十字架にかけられ、惨めな最期を遂げられ、失望しかありません。イエスの遺体が消えたことも耳にし、彼らはこれらのことをどう受け止めれば良いのか、イエスへの信仰は完全に行き詰まりました。
そこに、「近づいて来た=追いついた」人影がありました。二人はそれがイエスご自身であると全く気づきません。イエスが「死なれた」という事実に心が閉ざされていました。誰かと確かめる気さえおきず、見ず知らずの旅人に心のありったけを打ち明けました。
Ⅱ.聖書を説き明かす主イエス (24:17~27)
二人が自分の心の重荷を打ち明けた時、この見知らぬ旅人から新しい光のもとに説き明かされ、これまで気づかなかった聖書の理解を与えられたのです。そしてそれを聴くうちに彼らの心は燃えるのを覚えたのです。それは、他の誰かではない自分自身に語られていたからです。私たちの人生にある様々な苦悩は、私たちがその一部しか見えていないことに問題があり、また、恥の部分を否定する時、真実が見えてこないのです。
神はその全てを見ておられ、神の見方があるということを知ることは、次に進めるステップとなるのです。「見よ、わたしは世の終わりまで常にあなたとともにいる」と言われる主は、「違った姿」で私たちに近づき、聖書を通して私たちに語りかけてくださるのです。
Ⅲ.夕暮れから希望の朝へ (24:28~35)
夕刻頃、エマオの近くまで来た二人は、聖書を説き明かす見知らぬ人に「泊まってほしい」と引き留めます。イエスは、同じ方向に行く旅人のように寄り添い、決して自分から割り込むようなことはせず、彼らが招き入れてくれるのを待っておられたのです。
そして、イエスが食卓でパンを裂いて彼らに渡された時、二人は「目が開かれ」、目の前におられるのが復活されたイエスであると分かったのです。エマオへの道は曲がりくねった、木々に囲まれた淋しい道であり、二人の悲しみと失望によってさらに淋しさを増していたことでしょう。しかし、復活の主に出会った弟子たちの歓喜の涙に変わりました。
私たちの人生の旅路も、誰一人願い求めた人生ではなく、その不思議な人生の朝から始まり、複雑で、様々な経験を経て、孤独のうちに死と永遠に向かうと言っても過言ではないでしょう。私たちは復活の主を信じ、日々共に歩めることは幸いです。この世にあって人生は、日一日と夕暮れに向かうようなものですが、罪赦され、きよめられた私たちにおいては、永遠の世界の朝が明けはじめるのです。
結 論
私たちは心を貧しくして主ご自身を求める時に、心の目が開かれて伴っていてくださる主の臨在に気づくことができます。そして、その主が「わたし」の心に関わっていてくださると実感する時、内側から心が燃やされるという経験をするのです。私たちに現れてくださる復活の主のことばを求め続け、その恵みを語り告げましょう。