メッセンジャー:仁科宣雄師
「キリストの証人として」 ( ルカの福音書 24章36~49節 )
自分だけが良ければよいとは思ってはいませんが、人のために行動することも容易なことではありません。そんな葛藤を覚えながら、大きなことはできないけれどせめて身近にできることを心を込めて行うことで自分に納得させることが多いのではないでしょうか?
1.弟子たちに現れてくださる (24:36~43)
エマオへの道で、「復活の主」に出会った二人の弟子は急いでエルサレムに引き返しました。部屋では仲間の弟子たちが集まり、復活されたイエスに出会った人たちの話を聞いて混乱します。そんな弟子たちの真ん中に、イエスが現れます。「喜びのあまり、まだ信じられず、不思議がっていた(:40)」弟子たちを怒るのではなく、諦めるのでもなく、愛をもって辛抱強く、「見なさい、触れなさい、食している現実を確認しなさい」と教え続けてくださいました。弟子たちが復活を精神的な励ましとして受け取るのではなく、肉体の命をもって生きていることを信じるためです。それは、彼らが復活を語る最初の証人となるからです。
Ⅱ.旧約(聖書)から説き明かしてくださる (24:44)
「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」とは、今の私たちの旧約聖書を指します。イエスはここで、旧約聖書はすべて「わたし」、イエスにおいて成就するものだと語られました。イエスは復活がたまたま起こった奇跡ではなく、神のことばに基づき、神により長年にわたって入念に準備された計画の実現であることを教えられたのです。
Ⅲ.「復活の証人」として使命を与えてくださる (24:45~49)
さらにイエスは弟子たちに「罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」とお教えになりました。そのためにイエスは、彼らに聖書を悟らせ、その心を開かれたのです。当時の彼らは救いはユダヤ人のためだけに与えられると考えていましたから、あらゆる国の人たちに罪の赦しを得させる悔い改めが伝えられ、その赦しにあずかるということは、まず自分のことだけにとらわれている彼らの心を開くことが必要だったのです。
彼らが宣べ伝えるべき世界は、華やかな文化の中で政治的権力による皇帝崇拝と一般的民衆に幻想を与える民間信仰が行われていました。しかも、大工をしていた男であり、政治的に一揆をおこして、十字架刑に処せられた囚人イエスを「救い主だ、メシヤだ」と言って崇拝している宗教は何とばかげた宗教か」ととらえていました。そうした社会に、貧しく、愚かで、そして弱い弟子たちが、立ち向かっていくのです。
私たちは、「自分のことで精一杯、他人のことを考える余裕なんてない」とつい口に出るようになります。まして、伝道するとなるとなかなか心を開かない人に対して、「とても私には無理」と言ってしまうのですが、「イエスを主と告白する者」には生涯をかけて取り組むことのできる、大きな目標と使命が与えられるのです。この告白は聖霊によらなければ言えない言葉であり(Ⅰコリント12:3)、神の賜物です。一日のうちで何度も「わたしの主」と主を告白することは、自分のことだけでなく、他人の事を考えることに繋がっているのです。それは、主ご自身が最も願っておられることが全ての人が救われることだからです。
結 論
復活されたイエス様は、今も私たち一人ひとりと共に歩み、生きて働かれる主です。「永遠のいのち」を約束すると同時に、生かされている今、その命を喜び、感謝する生き方を身をもって示してくださいました。その主を心開いて受け入れ、自分にとって、家族にとって、地域にとって「真の救い主」となられる主の福音を、聖霊に寄り頼みつつ、伝えてまいりましょう。