メッセンジャー:仁科宣雄師
「世の栄華に勝る神の救い」 ( マタイの福音書 4章8節~11節 )
多くの宗教がある中で、礼拝の捧げ方は様々です。回数でいえば、1日5回のイスラム教に次いで、週ごとに集まるキリスト教も多いでしょう。礼拝は、生きた神との信頼ある交わりであり、この世にあって神の世を経験する臨在の場です。私たちの生きる世界が、はかなく空しいものとならないように、神のみこころがこの地になりますようにと祈りが募ります。
Ⅰ、サタンとイエスの激闘 (4章8節~11節)
サタンは3つの誘惑を仕掛けますが、今日はその3つ目です。イエスに世界の栄華を見せ、自分を拝めばすべてを与えると豪語します。「一緒に手を組んで、世界を治めよう」というのです。サタンも3つ目にして必死です。「俺を拝め」と本性をあらわにして、イエスに選択を迫ったのです。しかしイエスは、あなたの神である主にのみ仕えなさい」というみことばによって、その誘惑を退けられたのです。イエスは地上の栄光の道を受けることを望んではいません。それよりも時間をも支配し、永遠を知る神こそ、自分の仕えるべき主であると宣言したのです。のちにペテロが神の子イエスの十字架を否定しようとした時も、イエスは「下がれ、サタン、神のことを優先させるべき」とたしなめ、誘惑を退けられました。 イエスはサタンの誘惑を受け、自分が人の子であるということはどういうことかと戦っていたのです。私たち人間がこの世の栄華を見せられてどれほど心惑わされるものであるか、先の見えない繁栄を約束されても今すぐ手に入る富の方がどれほど魅力的であるか、これらを神の最大の祝福である「救い」と比べた時、神の祝福に軍配を上げることがどれほど苦痛を伴うか…と激しく戦われたのです。
Ⅱ.神が求められる「聖」なるもの (申命記34章1節~4節)
モーセは、イスラエルの民のリーダーとして、荒野の40年間、神と神に逆らう民たちの間に立ちながら、約束の地カナンを目指して民たちを導きました。しかしその最後、神はモーセにその地を見るだけで、入れないと言うのです。ただ一度、神の命令に従わなかったことが「神を聖なる者として敬わなかった」こととなったのです(申命記32章の48節~)。サタンは、「神に一生かけても、ただ一度の失敗を咎められ、祝福を受けられないのならば、今、一度俺に頭をさげて、目の前にあるすべてのものを手に入れる方が良いではないか」と誘うのです。しかし、そのように不完全な私たち人間を救おうと、神は愛するわが子イエスによる救いを計画されたのです。十字架による救いは神の領域であり、イエスですら入り込めることのない神の堅いご意志だったのです。神に捧げる「聖なるもの」を私たちの思いを混ぜて、濁してはいけないことを覚えましょう。
Ⅲ、神の救いを喜び、歌おう
聖書は決してこの世の栄光を、そしてこの世の栄光が光り輝く美しいものであることを否定してはいません。世界を造られた神が「それは良かった」と喜ばれたことを覚えましょう。 この世の栄光が、本当の栄光となるために、この地上が私たちにとって本当に喜び、楽しみつつ生きるべき地となるために、サタンに頭を下げるのではなく、生涯、神を敬い(=礼拝し)、 神の御声を聞き続けることを忘れてはならないのです。
結 論
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。(マタイ16:26)」と、時代を超えて、神が語ってこられた私たちへの最大の祝福とは「永遠のいのち」です。大切な自分のいのちが、神のみこころに従い通した、主イエスにおいてのみ完成する「永遠のいのち」となるために、主への礼拝を選び取ってまいりましょう。 |