メッセンジャー:仁科宣雄師
「アブラハムのとりなし」 (創世記 18章 20~33節 )
今、瞬時に世界の様々なニュースが届く時代、それが良い反面、それらのニュースを聞いて耐ええない痛みを覚え、「病い」にまで至る方が増えているとのことです。 私たちの祈りは、思いがあってもどうしようもないことを前に進めてくれます。それは、私たちの祈りを聞かれた「神」がみわざを進めてくださるからです。祈りは、神様の御前に①賛美②感謝③罪の告白④願い⑤とりなしという順序に導かれる事を覚えましょう。
Ⅰ.アブラハムにご計画を伝える主(18章 16~21節)
アブラハムのもとを訪れていた主と二人の御使いは、ソドムとゴモラの町に向かいます (17節)主は、自分がしようとしていることを「わたしの友」(イザヤ41:8)と呼ぶアブラハムに告げたのです。アブラハムはすべての国民を祝福するための特別な器として選ばれ、主のご計画になくてはならない存在でした。主は諸国の民に祝福を伝える使命と同時に、後の子孫が主の道を守り、正義と公正を行うことで、神に祝福された「神の民」を形成する使命に向き合わせようと、アブラハムにご自身のみこころを示されたのです。
Ⅱ、祭司アブラハムとして (18章 22~33節)
①主の前に立ち続ける…主の裁きを知ったアブラハムは、かつてハランから共に移住したロトが住んでいる町なので驚きます。すぐには言葉にはならない心の整理をしながら、主と対話するために、ご臨在の前に立ち続けたのです。 ②とりなしの祈りの根拠…ただ主の公義、主のあわれみのゆえです。主は義なるお方であり、正しい者とそうでない者とを区別して、それぞれにふさわしい報酬と裁きをお与えになるお方であるから、全部を一緒に滅ぼすことはないはず、と訴えたのです。 ③アブラハムの祈りの姿…第一に滅びる人たちへの愛、第二に謙遜な姿、第三に信仰です。「わたしはちりや灰にすぎませんが」と、何よりも自分が主の御声を聞き続けていなかったならば、滅びる人たちと同様の罪人であることを忘れることはなかったのです。 「信仰のない祈りは空しいものです。信仰の祈りは豊かな収穫の種を含んでいます。組織に頼れば組織が与えるものを得、教育に頼れば教育が与えるものを得、人間に頼れば人間が与えるものを得ますが、祈りに頼れば、神がなしてくださるものを得ることができます。A・C・ディクソン」私たちの人生にどれも必要なものですが、最後まで名前を呼ばれ、生かされている確信、愛されている確信、赦されている確信を持てる人生は、何ものにも代えられません。愛せない人を愛することができた、許せない人を許すことができた、生きるのが苦しみだった人に生きる喜びを伝えることができたと分かち合える人生を「とりなしの祈り」によって得ることができるのです。
Ⅲ.主の愛と忍耐
このアブラハムのとりなしを見るとき、私たちは「主の愛と忍耐」を教えられるのです。神は義なるお方であり、罪を裁かずにはおられません。しかし、「主は情け深く、あわれみ深く 怒るのに遅く 恵みに富んでおられる(詩篇145:8)」お方です。アブラハムの45人なら、いや40人、30人、20人、10人なら…と、6回にわたる人数のかけひきに「その町を全部赦そう」と彼の祈りを受け入れてくださったのでした。
結 論
主は、私たちのうめきにもならない声を聞いてとりなしてくださいます(ローマ8:26)。私たちはいずれの日にか神がこの世界を裁かれることを信じていますが、日々、主に生かされている命を感謝しつつ、一人でも多くの人が悔い改めて永遠のいのちに生きることを願っておられる主のみこころを覚え、祈り続けてまいりましょう。 |