メッセンジャー:仁科宣雄師
「主に生かされるいのち」 (ヨハネの福音書11章 38~53節)
時代と共に「お葬式」の持ち方が変わり、故人の生きた証を共に分かち合い、次へと進む時になっています。そこに神の存在を必要としない場合も増えていますが、命の尊厳は、神が人の存在を価値あるものとして生かしておられるということを覚えたいです。
Ⅰ.神に祈られたイエス (38~44節)
イエスは墓に向かいつつ、再び「死」に対して憤りを覚えます(:38)。墓の石をどけるように言われたマルタは、なぜイエスが墓を開けようとしているのか・・・とまどいます。 イエスが「ラザロよ出て来なさい」と、大声で叫ぶと、死んだラザロが布を巻かれたまま出てきたのです。思わぬ出来事に驚き、目も心も奪われがちです。しかしここで一番目を留めるべきは、イエスの祈りです。まず「父よ」と、イエスが神の子であり、約束の救い主であることが宣言され、事をなさるお方は「神」、と明らかにされています。そして、神は救い主であるイエスの願うことを必ず受入れてくださると示されています。主のとりなしの祈りが必ず応えられることの証拠が、ラザロのよみがえりでした。(:41,42) 私たちもマルタのように「死んでもう臭くなっている」と言う現実を前にして、何もする術がないと思ってしまいます。しかし、「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか」との御声を信じる時、必ず神だからこその「光」を見いだすことができるのです。それは、光輝く眩しい光ではないでしょう。が、決して消えゆく光ではないのです。 マッチ売りの少女は、寒く冷たい夜、誰にも助けられることなく路上で死んでいきました。しかし、彼女は一人寂しくではなく、愛するおばあさんの手に抱かれながら、天に召されたでした。著者のアンデルセンは、目の前の困っている人に愛を示すことを教えていますが、私たちは、神を知り、天国の希望を知って、その方法を信じている人の幸いを教えられます。現実がどのように暗くても、主は祝福を与えようと私たちを導いておられます。神の姿は「栄光」です。その神の光を見るまで、得るまで信じて祈り求めましょう。
Ⅱ.イエス殺害の陰謀 (45~53節)
これを目撃した人々のイエスに対する態度は分かれます。多くのユダヤ人たちはこの出来事を通してイエスを神の子と信じました。一方、祭司長(サドカイ人)や律法学者(パリサイ人)たちは、この出来事はイエスが神の権威を犯すものだとしてイエスに対する殺害計画をたくらむのでした。大祭司カヤパは、イエス一人が犠牲になることで、ユダヤ人の利権を守ることができると祭司長やパリサイ人たちに言い含めます。このカヤパのことばは、違う意味で現実のものとなります。「人類を罪から救うために」すべての人の罪を背負って十字架で死なれるイエスのことを預言するものとなりました。
Ⅲ.神の中に生き、動き、存在する私たち
十字架へと進む大きな出来事はヨハネだけが記し、他の福音書には記されていません。が、起元30年、イエスが文字通り、死人をよみがえらせたかどうかよりも、今、この記事を通して教えられる真理を確かに体験したという人がいることを覚えたいのです。その一人が救いイエスによって救われた「私」です。罪の中に死に、神に対して死んだ人々にとって、イエスが復活であり、命であること、それが意味のあることなのです。
結 論
イエスは、繰り返しご自分の栄光を十字架との関係で語られます。 そしてラザロの癒しは、栄光の道、十字架への第一歩を踏み出すことでした。それは、私たちに暗闇の中にあったとしても新たに生きる望みに生かしてくださるためでした。どんな時にも神の中に生き、動き、存在する恵みを覚えつつ、賛美してまいりましょう。 |