メッセンジャー:仁科宣雄師
「人となられた神の御子の誕生」 (ルカ2章1~7節、ピリピ2章6∼11節)
本日の御言葉 テモテへの手紙第一 1章15節
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、
そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
「ローマは一日にしてならず」、「すべての道はローマに通ず」と、ローマが世界の中心であった時代、ユダヤ人の国もその一部として支配されていました。それは、イエスの誕生の預言の成就と大きく関わることとなりました。
Ⅰ.世に拒絶された救い主の誕生
「ローマ帝国の住民は全員住民要録をせよ」との勅令が皇帝アウグストから出され、ヨセフとアリアの住むナザレの村から直線にして約110キロ・・・、ダビデ王の子孫であったヨセフの出身地、ベツレヘムへと向かったのです。身重のマリアにとって過酷な旅でしたが、神の御手に守られて二人はベツレヘムに到着しました。しかし、時も時、彼らが泊まる部屋はなく、マリアはイエスを産み、イエスは飼葉桶に寝かされました。
マリアの「聖霊による受胎」によるイエスは、その誕生の最初から貧しさと惨めさ、人間疎外の極みの中に身を置かれたのです。神の御子イエスは真の王として世に来られたにもかかわらず、世から拒絶されたのです(ヨハネ1章11節)。全ての預言が成就しました。
Ⅱ.人となられた神の御子(上から下へ) (ピリピ2章6~8節)
なぜ、神の御子イエスは地上に人としてお生まれになったのでしょうか?本来「神」と「人」とはかけ離れた存在です。①「聖」において…旧約においては神を見たならば「死ぬ」といわれるほどに恐るべき存在でした。②「力」において…人はどんなものをも造れても「人」を造ること、たとえ真似ることはできても神の霊が吹き入れられた魂を持つ人を造ることはできません。無から有を見出される神に対して、人は有限の世界に生きる者です。が、神は決して私たちとかけ離れた存在であることを望んでおられません。人を愛して=必要として造られたわけですから、最後まで共に生きたいのです。しかし「人」は、神を都合よく利用するだけで否定します。そして、その罪の大きさに気づいていません。それは神の思いに反して欲から罪へ、滅びへと向かう道です。その滅びへと向かう道から救い出すことができるのは「神」以外ありません。その唯一の方法として神の御子であるイエスをこの世に遣わされました。
イエスは「神である特権」には全く固執されませんでした。人を愛したいという思いは「何としても」と沸き上がるのですが、ご自分の特権は、「捨てても」良かったのです。神の御子イエスは「ある時は神で、ある時は人」、「半分は神で、半分は人間」と言うことではありません。神であり、人である、イエスキリストだけに与えられたその特性を、イエスは決して主張することなく、生涯をかけて神のしもべ、人々のしもべとして歩まれました。最期は、私たちの罪を背負い人々に蔑まれ、神に呪われて死ぬという十字架の死でした。この方法でなければ、神は私たちを罪から救うことができ得なかったのです。
Ⅲ.すべてに勝る名をもって天に上げられる主 (ピリピ2章9~11節)
「高く上げて」とは、イエスの復活と昇天を意味します。イエスのへりくだり=神への全き従順と献身は神のみこころにかなうことであり、救いの完成者として神はイエスを復活させ、ご自分の右の座に着かせ、全ての名に勝る名をお与えになりました。人の子イエスを「主」と呼ばれるのです。これは旧約聖書の神ご自身の名である「ヤハウェ」の訳語です。天地万物の創造主であり、それを支配する権威を持つお方、それが主です。
結 論
クリスマスは、「すべての人を」救うために世に来られたイエスを、「私の主」と告白し、父なる神に栄光を帰す時です。罪に汚れた私の名を呼んで、赦すために生まれてくださった救い主イエスの御名を心から賛美いたしましょう。