2025年1月5日 新年礼拝メッセージ 「悲しむ者の幸い」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「悲しむ者の幸い」                (マタイの福音書 5章4節)

本日の御言葉 マタイの福音書 5章 4節
 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。 

主の2025年がスタートしました。節目節目に主のみことばをいただきつつ、主が確かに導き、豊かに祝福してくださることを体験し、主の御名を賛美してまいりましょう。
「山上の教え」の中の「幸い」について2つ目「悲しむ者の幸い」からの恵みです。

Ⅰ.主の前の「悲しみ」

私たちが体験する悲しみの多くが「大切なものを失う」ことに伴う感情でしょう。タイミングによって、関係性によってその度合いは変わってきます。それら悲しみも喜びも分かち合うために「人」は造られ、お互いを必要としあうのです(ローマ12章15節)。
 聖書が示す「悲しみ」とは、「この世が神を失っていること」に起源を発しています。神に反逆しているこの世界や罪に沈んでいる人間に対する「悲しみ」です。
イスラエルの民の悲しみ    エレミヤ31章13節  哀歌
 神の民として選ばれ、愛されてきたイスラエルの民ですが、神の声に聞き従わない罪のゆえに幾度となく、罰を受けてきました。そして最後にエルサレムの都が陥落し、民たちがバビロンの捕われ人になるという厳しい主の裁きを受けます。繁栄とのギャップに嘆き悲しむ民たち・・・その悲しみは、自分たちの罪を認めての悲しみでした。主の厳しいさばきに対する訴えと主の恵みをたたえる賛美とが矛盾すると思われるほどに交差する中で、真に悔い改め、主の慰めとあわれみを祈るのでした。
パウロの悲しみ    コリント人への手紙
「コリント人への手紙」は、パウロの手紙の中で最も解釈が困難とされていますが、それは、彼の「心の乱れ」が原因とも言われています。コリントの教会はパウロ自身が伝道を始め、土台を築いた教会でしたが、彼に対抗する分派が生じ、パウロに対して悪質な中傷、非難が表面化し、パウロと教会の「信頼関係」は急速に悪化していきました。

Ⅱ.慰められる恵み      Ⅱコリント7章5~16節

「慰め」は、ことばだけで終わることなく、事実としてあらわれます。パウロとて心揺らぐ生身の一人の人間であり、必死の思いで記した手紙を書き送った後、不安と焦燥の日を過ごします。が、テトスの到来により、コリント教会の人々の「慕い」「嘆き」「熱心」は、すでに信頼が回復したという確かな事実をパウロにもたらしてくれたのです。

Ⅲ.聖霊によるとりなし

パウロは、悲しみの中にも自分自身の苦い「悔い」を覚えていたのです。手紙の言葉に、「追い出す」「絶好」というような言葉がコリントの人々を「悲しみ」に沈めたに違いないと…。同時にパウロは、彼がもたらせた悲しみが「悔いのない救いを得させる悔い改めに導かれた」ことを知って、そこに、人間的な思いや計画やはからいを超えて「聖霊のとりなし」があることを信じて祈っていたのです。
私たちも、また教会も、悲しみをもって受け止めるしかない破れに直面します。全ての善悪を審判できるのは神だけであり、その神の判定に服する時、「神のみこころ」の深さを知ることができるのです。私たちにはパウロのように祈ることができない弱さ、乏しさがあります。が、御霊自らが祈って下るのです(ローマ8章26~27節)。主の慰めは言葉だけ終わることなく、悔い改めとその実を結ぶと言う祝福をもって確かにあらわれるのです。

結  論

私たちの悲しみをご存知の神様は、慰めと共に、その重荷を背負って共に歩んでくださいます。「あなたがたは幸いです。」と祝福の実を備えていてくださる主に信頼し、その恵みを体験してまいりましょう。

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