2025年1月25日主日礼拝メッセージ 「子どもを招くイエス」 

メッセンジャー:仁科宣雄師

目次

「子どもを招くイエス」           (ルカの福音書18章15~17節)
            (マタイ19章13∼15節、マルコ10章13∼16節)

本日の御言葉 ルカの福音書 18章17節
 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
 決してそこに入ることはできません。          

「シンプルイズベスト」と言われる私たちの生活です。シンプルとは、決して薄っぺらいと言うことではなく、必要な機能がしっかり備わっていれば、他のものは無くても用を足せるのです。信仰も同じで「神、罪、救い」について、歴史を通して表された事実を深めていくことが大切であり、神が超人のようにすばらしいことをされるという人々が作り上げた理想の姿に惑わされることがないようにと願うことです。

Ⅰ.親の願いをはばむ弟子たち      15節

 イエスに会いたいという大人たちの願いは「幼子たちまで」一緒でした。子どもたちは親からイエスのうわさを聞く中で、親が一緒に連れて行ってくれることを喜び、走り寄ったことでしょう。ところが、イエスと一緒にいた弟子たちが、そこに立ちはだかり、子どもたちを叱った=厳しく非難したのです。決してうるさいから、面倒だからという思いではなく、当時の子どもの価値観、イエスの体調を思い計ってのことだったようです。

Ⅱ.子どもを招くイエス           16節

 イエスは弟子たちが子どもたちの邪魔をしたことに憤ります。苦痛を覚え(詳訳聖書)、彼らをお叱りになりました。以前イエスは、子どもの価値を認め、子どもを受け入れること=わたしを受け入れることだ、と断言されているのです(ルカ9章46節)。このことばを聞かなかったかのように、イエスの所に来た子どもたちを排除したのです。それはイエスをも排除したことにほかなりません。弟子たちはイエスに叱られるまで、その大きな間違いに気づくことはなく、この場において子どもに教え諭さなければならないと、またそれよりも自分たちは、イエスのために正しいことをしているとさえ思っていたのでしょう。
 イエスは弟子たちが子どもたちの邪魔をしたことに憤ります。苦痛を覚え(詳訳聖書)、彼らをお叱りになりました。以前イエスは、子どもの価値を認め、子どもを受け入れること=わたしを受け入れることだ、と断言されているのです(ルカ9章46節)。このことばを聞かなかったかのように、イエスの所に来た子どもたちを排除したのです。それはイエスをも排除したことにほかなりません。弟子たちはイエスに叱られるまで、その大きな間違いに気づくことはなく、この場において子どもに教え諭さなければならないと、またそれよりも自分たちは、イエスのために正しいことをしているとさえ思っていたのでしょう。
 イエスは弟子たちが子どもたちの邪魔をしたことに憤ります。苦痛を覚え(詳訳聖書)、彼らをお叱りになりました。以前イエスは、子どもの価値を認め、子どもを受け入れること=わたしを受け入れることだ、と断言されているのです(ルカ9章46節)。このことばを聞かなかったかのように、イエスの所に来た子どもたちを排除したのです。それはイエスをも排除したことにほかなりません。弟子たちはイエスに叱られるまで、その大きな間違いに気づくことはなく、この場において子どもに教え諭さなければならないと、またそれよりも自分たちは、イエスのために正しいことをしているとさえ思っていたのでしょう。
イエスはそんな彼らを苦痛に思い、憤られたのです。

Ⅲ.幼子から教えられること           17節

 「このような者たち(14節)」とは、幼子のように純粋で、素直で、こだわりやプライドがなく自分が小さな者であることを知っている者であり、イエスは、そのような人にこそ「神の国」の祝福、力、喜びは及ぶのだと教えるのです。
 幼子は、自分を愛してくれる人の愛情を信じて、全体重をかけて飛び込んできます。遠慮はありません。疑いもありません。必ず受け止めてくれると信じているのです。
 そして、親としての約束の言葉を信じて、叶えられることを待ち望み、叶ったならば大喜びです。加えて、子どもは弱く、自分では何もできず、誰かに依存しなければ生きられないのです。それは、私たちが罪と死から救われるためには、全く無力であり、ただ神により頼むほかないと言う事です。
 猿の子どもは生まれるとすぐに母親の背中かおなかに自分の手でしっかりしがみついて運ばれます。ネコ科の動物の母親は必ず子どもを口にくわえて運んでいます。子どもはまったく力を抜いて、母親のなすままです。この猫が私たちと神との姿です。自分の力を抜いて、神の思うがままに守られて、導かれていることを覚えましょう。

結  論

私たちは、救われて何年たったとしても「神の子ども」です。父なる神は私たちに朽ちることのない確かなもの、豊かなものを与えたいと願っておられるからこそ、「わたしのもとに来なさい」と招いておられるのです。「父なる神様」と祈る、その主との関係を忘れることなく、神に全き信頼し、慕い求めてまいりましょう。

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