メッセンジャー:仁科宣雄師
「十字架上の祈り」 (ルカの福音書 23章)
本日の御言葉
父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。
ルカの福音書 23章34節
人生の最期、私たちは自分の思うように迎えられるなら幸いであり、そこで「感謝」を伝えることができれば最も幸いと言えるでしょう。息も絶え絶えの中でイエスの最期のことばは、聞く耳のある者にとって、どのような苦難にあっても希望となる力でした。
Ⅰ.世の権威の前に沈黙されるイエス 23章 1~12節
イエスは、最高法院で宗教的裁判にかけられ、「神への冒涜罪」と宣言されますが、「死刑」確定のために、さらにピラト、ヘロデのもとで行政的裁判を要しました。その裁判においてイエスは多くを語られません。しかし、その沈黙を通してイエスは神の救いを語っておられたのです。主の声は主を待ち望む者にしか聞こえてこないのです。
Ⅱ.群衆の中にある罪 23章 13~25節
ピラトもヘロデも死刑に値するような罪をイエスに見出せませんでした。が、ユダヤ人たちの「イエスは邪魔者」という思いは強く、ピラトは彼らの声に屈してしまいました。
私たちは一人で自分の罪と向き合うことは大変なことで、大勢なら罪を誰かのせいにすることができるのです。世の声と一緒になって主の声を退けることがないように、その罪の大きさを覚えておきましょう。
Ⅲ.十字架上のイエス 23章 32~49節
イエスは、極限状態の中で7つのことばを語られました。その最初のことばは、お祈りでした(34節)。今、目の前で自分を殺そうとしている者たちのためにとりなしたのです。
①父よ…イエスは孤独で戦っていたのではなく、ゲッセマネでの祈り以来、父なる神の最善を信じ、従っている真っ最中でした。父への敬愛は微動だにしていません。全世界をご支配されるその父の愛、神の権力を信じて、祈られたのです。私たちは「父なる神よ」と祈る祈りに、どれだけの信頼をもって祈っているでしょうか?
②「彼らをおゆるしください」…この十字架刑に関わっているすべての人の罪を…です。「ゆるす」という言葉は「解き放つ」と言う意味があります。自分の醜い姿に気がついていない彼らのために、自分の欲に囚われている心が解き放たれ、本当の自由を与えられるようにと祈っておられるのです。イエスは「十字架から降りて、自分を救う」力をお持ちでした。が、彼らのためだけでなく、罪がある私たち全ての人が受けなければならない罰を代わりに受けるために、十字架上にとどまられたのです。この赦しがなければ、罪の連鎖は終わることがないのです。イエスは、今自分が神の罰を受けて赦されることで、罪が罪を生み出すことがないように、さらには復活と言う勝利の道があることを言い表されたのです
③「彼らは、何をしてるのかがわかっていないのです」…赦される理由です。本当に自分の罪に気づいて悔い改めようと恵みの御座に近づく時、このことばは大きな慰めです。イエスはそのために今、十字架でのお苦しみを逃げることなく、全て受けてくださったのです。その意味でイエスの祈りは、どうか罪を犯す彼らが、主の前に悔いる時が与えられますように、彼らの目が開かれ、罪の姿に恐れを持つことができますように、と言う祈りと言えるのです。
結 論
イエスは、十字架にかかられることが罪深い私たちを救う唯一の方法であり、神の私たちへの愛によるものであることを知って、父なる神の御声に最後まで従われました。この目をそむけたくなるほどの現状を霊の目で見る時、「私のためです」と心からの感謝に変えられる恵みを体験させていただきましょう。