メッセンジャー:仁科宣雄師
「復 活 の 朝」 (ヨハネの福音書 20章1∼18節)
本日の御言葉
平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを
遣わします。
ヨハネの福音書 20章21節
「ハッピーイースター!」喜びの挨拶です。新学期、新年度がスタートし、本来の勉強、仕事へと進んでいきますが、より良い学びのためには予習、復習が必要となってきます。復習することで学びを確実にしていきますが、「復活」は死を滅ぼした新しい光によって、もう一度イエス様の生きざまを見直す恵みを与えてくれることでしょう。
Ⅰ.悲しみの封印を解かれたマリア (20章1、2、11~18節)
神は、御子イエスを「貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついたものを癒すため(イザヤ61章1節)」にこの世に遣わされ、十字架の死によって救いを完成されました。三日目の朝早く、マリアたち3人の女性は愛するイエスと最後のお別れをしようと墓へと向かいました。主を愛するがゆえの勇気ある行動でした。墓に着くと、大きな石は転がされており、イエスのご遺体がないのです。「失った」ことに心をとらわれているマリアは、後ろからイエスに声をかけられても、イエスだと気づかないのです。その時、「マリヤよ」と名前を呼ばれ、「この声はラボ二(先生)!」と、生前の御声がよみがえったのです。イエスが生きて目の前におられることがあまりにうれしく、すがりつこうとしますが、イエスはその手をさえぎるかのように「ご自分が神のもとに『上る』ことを弟子たちに伝えなさい」とマリアに使命を与えられたのです。悲しみから解かれたマリアは、「私は主を見ました!」と、復活された主を弟子たちに証しするまでに力を与えられたのです。
Ⅱ.恐れの封印を解かれた弟子たち (20章3~9節、19~23節)
マリアから報告を聞いたペテロとヨハネは墓へと走ります。墓の中に入ると、イエスのマリアから報告を聞いたペテロとヨハネは墓へと走ります。墓の中に入ると、イエスのお体はなく、衣だけが置いてあるのを見ました。それを「見て」、イエスの復活を「信じた」のですが、「聖書のことば=イエスのことば」と結びついていかなければ、信仰に繋がっているとは言えないのです(9節)。事実、弟子たちはユダヤ人たちからの迫害=死を恐れて、部屋に閉じこもっていました。そんな彼らにイエスはご自身を現され、平安を与え、喜ぶ弟子たちに「あなたがたを遣わす」と、最も尊い仕事を託されたのです。それは、何が罪であるか正しく判断し、その罪を赦す権威を用いるという神の仕事です。そのために「聖霊を受けなさい」と神の息を吹き入れたのです。復活は、死の恐れから解き放つ力ですが、何よりも、罪がもたらす「死」に打ち勝った力なのです。
Ⅲ.新しいスタート
これまで、ユダヤ人にとって安息日は金曜日の日没から土曜日の日没で、日曜日は休みではありませんでしたから、イエスを救い主として信じた「キリスト者たち」は、日曜日の早朝、仕事に行く前にどこかで集まり、この復活の出来事が語られ、この主を礼拝したと考えられるのです。ユダヤ人として、同じ信仰に生き、同じ生活、習慣を共にしていた人々の中から、このようなキリスト者の群れが生まれ、新しく「主の日」を礼拝の日と変えていった、それは厳しい戦いであり、主への信仰なくしてはあり得なかったのです。復活の主イエスとの出会いは、再会の喜びです。以前、初めて出会って、従ってきたその時の思い、自分の力で信じようと頑張っても信じきれない弱さ、自分の期待するメシアを作り上げてきた愚かさにもとことん寄り添い、愛しぬいてくださったイエスとの再会です。そして、もう一度、神の国を建て上げるために用いてくださるのです。
結 論
週の初めの日の朝、死に至る暗闇の力に勝利された復活の主にお出会いし、新しい命、どのような罪にも向き合い打ち勝つ力に満たされる喜びを心から賛美しましょう。さらに聖霊を頂いてこの主を証しする使命を果たしていきましょう。