2025年6月15日 父に感謝する日礼拝 「イエスの名による救い」 

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「イエスの名による救い」            (使徒の働き  4章1~12節)

本日の御言葉
   この方以外には、だれによっても救いはありません。
                    使徒の働き 4章12節

私たちは「名前」の持つ力を様々な形で経験します。一昔前の、水戸黄門による世直しに多くの人が心癒されました。その時代は、家において「主」というだけで大きな力を持っていました。さかのぼること2千年以上前、神の御子イエスは生まれる前からその名=「救い主」を背負い、その生涯を全うされ、その名を生かし続けておられます。

Ⅰ.金銀に勝る新しい歩み     (3章1~10節)

ペテロとヨハネが午後3時に宮に行くと、生まれつき足の不自由な男性が運ばれてきました。身体の障害のため仕事に就けず、施しを「受けて」生きていた彼は、いつものように宮の門の前を通るペテロとヨハネを見て、施しを求めました。彼のうちに本質的な渇きがあることを見たペテロは、「…私にあるものをあげよう。ナザレ人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、手を差し出したのです(3章6節)。「私にあるもの」とはペテロ自身が大きな失敗から立ち上がらせてくださった確かな「主の力」でした。
彼の足とくるぶしは、たちまち強くなり、躍り上がって立ち、歩き、飛び跳ねながら、神を賛美しつつ、ペテロたちと一緒に宮に入って行ったのです。毎日神殿に来ていながら、一生神に近づくことはできないと思い込んでいた彼にとって、自分の足で神に近づき礼拝できる人生は夢のような喜びだったでしょう。彼が求めた一日を生きる「糧」以上に、永遠に生きる「霊の糧」が与えられたのです。

Ⅱ.癒し以上の神のわざを共に喜ぶ人々     (3章11節~26節)

この光景に驚いて集まってきた人々に、ペテロは奇跡が起きたのは自分の力によるものではなく、いのちの君であるイエスの力によるものと証言します。続けて、「神の力を信じて、悔い改めて神に立ち返るなら、罪が赦され、その約束によってこそ、私たちは神のもとへ帰ることができる」と、説いたのです。この時この男性が癒されたことは、本人だけでなく、彼を知る人々にとっても喜びとなり、新しい歩みをもたらせたのです。

Ⅲ.イエスの名による救い           (4章1~22節)  

このペテロたちによる人々の喜びを容認することができないユダヤ人指導者は、ペテロたちを逮捕し、議会の真ん中に立たせます。そこでペテロが堂々と「彼の足が癒されたのは、あなたがたが邪魔ものにして捨てた『イエスの名によって』です。この方以外には、誰によっても救いはありません」と断言したのです。そしてこうして二人が逮捕、拘留されている間も主のことばはつながれず、多くの人々を主の救いへと導きました。彼らはペテロたちの姿に驚きながらも、これ以上イエスの「復活」について語ることを禁じ、釈放しました。こうして主の働きが進むと同時に迫害も激しくなっていくのでした。「救い」とは、単に助けという以上に、最悪を免れたという意味があります。私たちは誰かの「助け」以上に、「救い」なくしては生きていけないことを覚える必要があるのではないでしょうか。私たちは、クリスチャンにとっての救い=魂の救いが、「何物にも代えられない、今を生きて働く力です」と、確信もって宣言できるでしょうか?

結  論

私たちは、自分の足と意志でこうして主の宮に入り、礼拝していますが、自分のような者が変えられたという驚きと、新しい命をいただけたという喜びはどれほどのものでしょうか?礼拝が信者としての「お勤め」で終わっていたなら、生きた主のわざを見ることはできません。「主の救い」を体験した私たち一人ひとりが、なお聖霊を求め、生き生きとした神との交わりに入れられ、感謝と喜びに満たされますように、主の名が証しされますように、祈り求めてまいりましょう。

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