2024年1月7日新年礼拝メッセージ 「心の貧しい者の幸い」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「心の貧しい者の幸い」            (マタイの福音書5章1~12節)

宣教を開始されたイエスの働きは、人々の必要に応えると共に、神の国の福音を伝えることでした(マタイ4;23)。イエスの不思議な力を求めて、いつも多くの人が集まってきましたが、この時イエスは、弟子たちに「心すべきこと」を教えられました(5∼7章)。

Ⅰ.「幸い」は、今、すでに祝福されていること

その教えはまず、「なんと幸いなことでしょう」と始まりました。「心の貧しい者は、悲しむ者は、義に飢え渇く者は、あわれみ深い者は、平和をつくる者は、義のために迫害されている者は…」と、8つの姿を挙げ、「もう祝福を受けていますよ!」と言われたのです。 「幸い」とは、人によって感じ方が違いますが、意味としては喜ばしいことでしょう。英語で幸福を意味する「ハッピネス」の語幹「ハップ」は偶然を意味し、人間の幸福は人生の偶然と変化に左右されるのです。しかし、イエスが言われている「幸い」とはギリシャ語で「マカリオイ」で、かつてギリシャの人々が、地上の苦しみや悲しみの中にはいずり回る人間が、この苦しみや悲しみと無縁のはずの神々の生活を想像し、その神々は幸いだなあという時の「幸い」を言った言葉だそうです。今、現実の世界は、戦い、災害、事件事故など厳しいことの連続です。が、イエスが私たちに「もう幸いですよ」と言われるのです

Ⅱ.幸いは「心の貧しい人」

「心が貧しい」とは、心が狭くて卑しいとか、きれいな風景を見て感動しないような感情の乏しさを言うのではありません。また、謙遜であるということでもありません。あえて「心の」と記しているのは、物質的なことではなく、「霊において貧しい者」という意味で、神との関係を強調しています。その関係は神様の前に立ち上がれないほど完全に打ちのめされたことであり、破産状態を意味します。世間から見放されてもう神に頼るしかない、という状況です。ただ、ここで「ひたすらに神に頼るしかない」という思想にとどまっていとことは覚えるべき所です。「神も仏もない」というのではなく、「神だけは見放さない」とそこに希望をもつことで、全ての試練や困難を耐えていたのです。イエスは「自分が無力であることを知って、神の前に降参し、ただひたすら神に寄り頼む人はさいわいです!」。それは、最後の最後になって生きる望みは神しかないというのではなく、「今!」です。豊かであると思える今でも、と教えるのです。イエスは、人々の苦しみ、悲しみの裏にある、本当の平安、希望を与えるために神の奇跡を通して、いつも共にいてくださる神の存在を教えられたのです。その神が先頭になって、神のみこころに添った国を建てあげていくために、神に従う人々を必要とされるのです。

Ⅲ、最高の祝福とは、「天の御国」の幸い

戦争とは「憎しみあい」です。しかし、この憎しみは戦争が終わるとなくなるわけではありません。イエスは、私たちの心にひそむ罪を全てご存じで、その罪に悩み、苦しみ、絶望する人、自分の力でどうしようもない罪の解決を求めてわたしについて来るなら幸いだ!と叫んでおられるのです。イエスの思いはこの地上において、今いる人々によって神の国が建て上げられていくことでした。私たちが、神の保護と支配の中に置かれ、慰められ、神のものをすべて受け継ぐ相続人となっていて満ち足りる毎日を過ごしてほしい。神のあわれみを受け、神の子とされ、神から「よくやった」と評価され、神と共に生きる。このような祝福を今、生きている間に受けてほしいと願われているのです。

結  論

新年を迎え、「すでに祝福されているのですよ」との言葉に喜び、「心貧しく生きる」ことを、誇りとして歩んでまいりましょう。                   

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