2023年10月15日 主日礼拝メッセージ 「罪を赦す権威」

メッセンジャー:仁科栄子師

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「罪を赦す権威」           (ルカの福音書 5章 17~26節 )

患者にとって「すぐに病名がわかり、その治療法を明確に示してくれる」先生に出会えれば幸いですが現実はそう簡単ではありません。医者は試行錯誤しながら今日の診断で「何」を持って帰っていただこうかと思われていることでしょう。主の礼拝においても主は「今日、私はあなたの試みを癒し、立ち上がらせる」と願われていることを覚えましょう。

Ⅰ.イエスのもとに押し寄せる人々     (17∼19節)

神の特別な力によって人々の病気を癒されたイエスのうわさは広まりました。ある日、イエスが滞在していると聞きつけた人々が、その家に押し寄せていました。真剣に話を聞こうとする人、突然現れて評判になった若いイエスに興味を持つ人、そこにパリサイ人や律法の教師たちも来ていました。彼らはすでに主イエスの人気や活躍を妬み、何かあら捜しをして言いがかりをつけようと狙っていたのです。 そこへ4人の男性が、全身がマヒする中風と言う病気にかかった寝たきりの友だちを寝床ごと、運んできたのです。病気の友人の嘆いていたのを聞いたのか、悟ったのか、友人たちの意見が一致、団結し、連れてきたのです。しかし、大勢の人でイエスに近づけません。彼らはなんと屋上に上り、屋根の瓦をはがし、寝床ごとイエスの目の前につり下ろすという非常識とも言える行動に出たのです。当時の家屋は、私たちが思うよりは容易な造りだったようですが、尋常ではありません。厚い友情と熱意、主イエスへの信仰が行動を起こさせたのです。本気の信仰にイエスは本気で応じてくださるのです(5:12)。

Ⅱ.罪の赦しの宣言      (20節)

イエスはこのことをじっと見ておられ、友人たちと病人の大胆でまっすぐな信仰を評価されました。「友よ、子よ(マルコ2:5)」と、迷惑を起こす人としてではなく、イエスと共に生きる人として認められていたのです。そして病気の男性に「あなたの罪は赦された」と「罪の赦し」を宣言します。イエスにとって病の癒しは、救いの一部分であり、全てではなかったのです。彼が葛藤し、心の苦しみを神に訴えていたのを知っておられたのでしょう。癒しを求めていた彼にとっては思いもよらぬことでしたが、赦しが与えられたのです。イエスは、罪と病を関連付ける人々に真実を教え、現実に生きる社会の中で得ることができる、神の国の祝福があることを示されたのです.

Ⅲ.罪を赦す権威     (21∼26節)

これを見たパリサイ人、律法学者たちが「神への罪は神にしか赦せない。よってイエスは冒涜者だ」と言う心の中の理屈をイエスはとらえていました。人には「罪が赦された」ことはごまかせるので容易に言い得るが、イエスにとっては「罪を赦す」ためには、ご自分の命を懸けることを知っておられたのです。人々はこの権威ある主を恐れ,驚くのでした。 私たちの信仰が大胆な行動になって現れなくても、イエスご自身が、屋根を突き破るどころか、十字架の死に真っ直線に向かってくださったことを信じること、その主のみわざをいつも賛美し、心から礼拝する事こそ主が望まれている信仰ではないでしょうか。

結  論

神の息を吹き入れ、神のかたちに創造された人間だけが本能だけでなく、意志を与えられています。私たちが信仰を強く持つ意志、愛する意思、従う意思を主に示すなら、主がそれに応えてくださるのです。主は、私たちができるかどうかではなく、信じる意思があるかないかと問うておられ、その意志がある所に聖霊が働いてくださいます。身体の癒しのみならず、心の赦しを必要とする私たちを導いてくださる主の完全な癒しを期待し続け、求めてまいりましょう。

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