メッセンジャー:仁科宣雄師
「神に遣わされた救い主」 (ルカの福音書 4章 16~24節 )
様々な働き方がある中で、「派遣社員」も意味ある存在となっています。現場の状況を見聞きしながらも、派遣会社の信頼に応えて、働くことが求められます。 神の御子として働きを始められた主イエスは、エルサレムやカペナウムなどで宣教や病の癒しなどの奇跡を行ない、イエスの故郷ナザレのある地方一帯にまで知れわたりました。イエスは、故郷の人々の前で自分の働きが何のためであるか、明らかにされます。
Ⅰ.「主の恵みの年」を告げるイエス (16~21節)
主イエスはナザレに戻り、安息日に会堂の礼拝で人々の視線が注がれる中、イザヤ書61章を朗読され、神がメシヤ(救い主)を遣わし、苦しむ人々に救いをもたらすという福音をお語りになりました(18,19節)。この時イエスは、聖書の説き明かしをされたのではなく、ご自分こそ預言されていた待望のメシアであり、今、まさに預言が実現し、主の恵みの年が幕開けたと故郷の地で宣言なさったのです。 人間はアダム以来、罪と死の支配に苦しんできました。その支配からの解放が始まったのです。神は、「捕われ人には解放を」告げ、「虐げられているひとを自由の身と」するためイエスを遣わされました。このイエスを信じる者たちが、神の恵みに支配される神の国に入り、罪と死と呪いから解放され、神と共に生きるいのちが回復されるとの約束です.
Ⅱ、ナザレの人々の反応 (22節)
この宣言を聞いたナザレの人々は、「みなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚き」ました。「あの子がこんなに立派になって・・・」と誇らしく、その驚きは信仰の第一歩となるはずでした。ところが一方で、いくら優れていてもただの人間、ただの大工の息子だろうと考え、メシアであることは受け入れなかったのです。 また、ナザレの人々は、ローマによって自国の民が多く殺されたことへの復讐を誓っていました。それなのにイエスは「主の恵みの年」は告げても、「われらの神の復讐の日」は告げないと、イエスが郷里の歴史や心を無視していることが、彼らには許せなかったのです。主イエスの視野にあるのは、ナザレはもちろん、イスラエルという枠組みさえ超えた神の国の確立と、全人類の罪の赦しと神との和解でした。このようにイエスの視野とはかけ離れており、人々の偏狭さがつまずきをおこしたのでした。
Ⅲ.主イエスの評価 (23〜30節)
イエスが奇跡を起こすことを自分たちのものとして利用しようという気持ちがあることを見抜いたイエスは彼らに厳しい言葉をかけます(23節)。イエスは旧約の記事を示し、奇跡によって救いを得たのは、神を信じた異邦人の貧しいやもめ(Ⅰ列王17章)と病気に苦しむ軍人(Ⅱ列王5章)だったと、語られたのです。奇跡だけを土台とする信仰は救いをもたらしません。神のことばをへりくだりをもって信じる信仰こそ「救い」へと導くのです。 イエスが望んでおられたことは、自分の故郷ナザレの町全体が「祝福の源」になることでした。信仰とへりくだりでご自分をメシアとして受け入れ、ナザレから主の祝福があふれ流れることを心から願っていたのです。それが神のみこころであったからです。
結 論
主は、わたしたちにも自分のかたくなな心を打ち砕き、信仰の視野を広げ、神の国の祝福を余すことなく受け取ることを願っておられます。 さらに、神が遣わされたこの救い主イエスを自分の「主」と信じた私たちを、神は信頼して油をそそいでくださり、今の場所に遣わしてくださっています。神が全ての人々に約束されている主の救いのみわざをこの目で見させていただきましょう。 |