2023年9月24日 主日礼拝メッセージ 「アブラハムの試練」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「アブラハムの試練」            (創世記 22章 1~14節 )

「災い」を「厄」ととらえるか「試練」ととらえるか分かれることです。日本人の多くは「厄」を払うために祈祷に行くわけですが、私たちは災いを「試練」とし、どんな試にも神の御手の中にあり、主の備えがあることを教え、励まし、乗り越えさせてくださるのです。

Ⅰ.イサクの誕生    (21章 1~8節)

アブラハムとサラの間に、「約束したとおりに」男の子が誕生しました。100歳、90歳である二人に主の約束は時がくると必ず成就することの揺るがない証しです(Ⅱテモテ2章13節)。 かつて二人は、約束を待つ間に信仰が揺らぎ、「子が与えられる」との約束を聞いて、信じられずに笑いました。しかし、ここで神がサラを祝福し笑ったのです。サラ自身も神への感謝と喜びに笑い、アブラハムも神の約束が実現していく希望を抱いて笑います。

Ⅱ.アブラハムの試練    (22章 1~5節)

そんな中で成長したイサクを「全焼のささげ物として捧げなさい(22章:2節)」と、神からアブラハムに耳を疑うような命令がありました。何よりも「人を殺すな」と命じてきた神が、それも親が自分の子どもを殺せとおっしゃるのです。また、イサクを失えば、子孫に関する約束も実現しないことになります。明らかにこれまでの約束と矛盾する命令に彼の心はどれだけ揺れたことでしょう。しかしこの時、彼は「あなたの愛しているひとりごイサクを」と言われたことばを聞き逃しませんでした。彼は、神が意味もなく自分を苦しめることはないと言う信仰に立ったのです。また、こうして子どもを与えられたのは神であり、「主は与え、主はとられる」と、神にささげることは当然とも考えたのでしょう。神は、ご自身の計画を前進させるべく、このことを命じておられると信じ、彼は激しい葛藤と苦悩の中で、死者の復活の希望(へブル11章19節)と神のことばへの信頼をもって「翌日、朝早く」旅立ったのです。 神が試練に遭わせるのは、時として、神の約束を忘れ、迷いだしている時であります。試練を通して悔い改めに導き、信仰を回復されようとされるのです。しかし、この時アブラハムは神との正しい関係にあった中であり、彼のこの試練を見る時、神はみこころによって、信仰者の信仰と献身を深めるために試練に遭わせられることを教えられるのです。

Ⅲ.主の備えられた「いけにえ」「キリスト」    (22章 6~14節)

イサクの「捧げものにする羊にいるのですか?」という質問にアブラハムは自分にも言い聞かせるかのように「神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださる」と答えます。イサクは素直にその言葉を信じますが、なんと自分が薪の上に載せられたのです。イサク自身、神への信仰が働いたとしか言いようがありません。そしていよいよ、アブラハムが刃物を手にしてイサクをほふろうとした瞬間、主がその手をとめられました。「…あなたは、自分の子、自分のひとりごさえ惜しむことがなかった」と神を恐れ、究極の状況でも神を信頼し、従い抜いたアブラハムを喜ばれました。この姿は、後に御子イエスを犠牲にしてくださった神の御姿と重なります。そして、藪の中に捧げるべき羊を備えていてくださったのです。彼はその羊をささげ、その所を「主が備えてくださる」と名づけました。神はアブラハムとの契約を更新されました(:15~19)。それは、イエスによる全人類救済の偉大な契約へとつながっていきます。

結  論

悪いことをしたから、汚れがあるから、試練に遭うのではありません。試練はさらに信仰と献身を深めようと主が共に働いてくださる時であることを覚えましょう。そのために、神が愛するひとり子をも惜しまずに「永遠の希望」を備えていてくださることを信じて、主のみことばに信頼し,従ってまいりましょう。

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