2022年2月13日 主日礼拝メッセージ「 真の謙遜 」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「 真の謙遜 」     (ルカの福音書 18章  9~14節 )

本日の御言葉(ルカの福音書18章14節 )
 だれでも自分を高くする者は低くされ、 自分を低くする者は高くされるのです。                           

北京オリンピックにて熱戦が繰り広げられていますが、本番を前に自分を高めて「自信」をもって臨む姿は頼もしく、見ている方も応援に力が入ります。その自信は私たちの想像を絶するような練習によるところからでしょう。そして、4年に一度の特別な大会での結果を自分の実力と認め、周りの人々への感謝を表しつつ、糧とし積み重ねていく姿に、選手として、実力と共に「謙遜」を求められることを見ることです。

Ⅰ.教えの対象者

イエスは、今日のたとえの中で、はっきり「パリサイ人」を登場させ、自分に敵対する宗教指導者たちに対して教えようとされます。しかし、あえて「自分は正しいと確信していて、他の人々を見下している人たち」と言い(9節)本人たちが気づく必要があると思われていました。

Ⅱ.祈りの姿勢   (18章11~13節)

 当時、パリサイ人たちは、神殿正面の聖所に一番近い所を祈りの定位置とし、その姿は、胸を張り威風堂々と表現されています。「パリサイ」という名称は「分離された者」に由来しており、彼は自分から「ほかの人たち」を分け、その彼らを「奪い取る者、不正な者、姦淫する者…」と断じているのです。そして、断食、献金と、「自分は」正しく行っている、たまたま居合わせた「取税人」を引き合いにして、彼のようでないことを感謝の対象とするばかりか、それを「心の中で祈った」とあります。神の前に立っていながら、神に話しているのではなく、自分の正しさを自分に言い聞かせているだけでした。
 一方、取税人は人々から遠く離れ、神殿の入り口近い所で、うつむいたまま、自分の胸をたたきながら祈っています。「こんな罪人の私」と告白し、天を仰ぐこともできない自分であることを承知していたのです。

Ⅲ.神の前での謙遜  (18章14節)

 神が、義と認めたのは取税人でした。それは、具体的な願いが聞かれたということよりも、祈った人が義と認められることによって、祈りが聞かれたことを示しています。義と認められたということは神と交わりをもって帰ったということです。私たちの祈りも。
 私たちは聖書を学び、救い主を信じる信仰を持ち、深く主を知ることによって、「自分」が主語になる落とし穴があります。神のことばは、私たちの心を照らす光であり、その照らし出された心を、神が赦し、きよめてくださるという確信が、ますます神に近づきたいという求めに変わってくるのです。自分卑下ではなく、神のあわれみを求める告白こそ、自分を低くすることであり、悔いし、砕けた魂の祈りを神は義とされるのです。

結  論

クリスチャンにとって、感謝と祈りは恵みのわざであり、それを自分の信仰のバロメーターとすることは大切なことです。しかし、それを自分の力と「過信」したり、神の力をも否定する「謙遜」としてしまってはないでしょうか?主から「あなたは高価で尊い」とされ、「十字架の救いによって」この世に勝つ力を与えてくださっています。この主ご自身を誇りとし、日々祈りつつ、挑んでくるサタンからの誘惑に勝ち得て行きましょう。

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