メッセンジャー:仁科宣雄師
「神に従う祝福」 (ヨハネの福音書 1章43~51節 )
夏山登山の楽しみは登った人だけが知る醍醐味でしょう。途中の苦しさを忘れさせる達成感がさらに高い山へと挑戦させるようです。登山に限らず、心に思うことが、達成できた時には、さらに上を目指そうと意欲がわいてくることでしょう。 先週のアンデレ、シモンに続いて、イエスが弟子たちを招かれた様子を見ましょう。
Ⅰ.イエスに従った ピリポ(ヨハネ1章43節~51節)
イエスは、ガリラヤの町に行こうとされた時、カナの町でピリポに目を留められました。ピリポは、律法や預言書をよく読んでおり、救い主を待ち望んでいる人でした(45節)。イエスは、ピリポのこともよくご存じの上で、「わたしに従ってきなさい」と声をかけられたのです。「従う」とは、イエスのことばに耳を傾け、聞いたことを行う弟子となることです。
Ⅱ.主に知られていたナタナエル
ピリポは、友人のナタナエルの所に行って、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いているメシアにお会いしたよ。ナザレの村の出身で、イエスというお方だ」と話しました。しかし旧約聖書を詳しく学んでいるナタナエルは、神の御子イエスはベツレヘムでお生まれになると知っていたので、ナザレからは「神の選びの人」、「メシア」が出るはずがないと信じません。そんな彼に、ピリポは議論することなく「とにかくお会いしてごらん」と強く勧め、ナタナエルは渋々といった様子でピリポについて行きました。 ナタナエルは、初めてお会いしたイエスが、ただイチジクの木の下にいるのを見られただけでなく、自分の心の奥底を読み取られたという事実に驚きます。彼らの平和の概念は、ぶどうの木の下とイチジクの木の下で、穏やかに過ごすことができる時でした。それは、神の保護により祝福を受けることの象徴でもあります。また、大きい葉で日影ができるので木の下で黙想する習慣がありました。ナタナエルがイスラエルの現状を憂い、「来るべきメシア」が来られる日に思いをはせ、そのために祈っていたことをイエスは知っておられたのです。彼は心の中で「わたしの心の願いを理解する人がいるとは!私の魂の口に表せないうめきを表現しうる人がいるとは!」と叫んだでしょう。そして、イエスこそ神の約束されたメシアに違いない(:49)」と確信して弟子となったのです。
Ⅲ.「大きなこと」を見る祝福
さらにイエスはナタナエルに「もっと大きなことを見るようになる」と予告なさいました。 イエスは先にナタナエルを見て、「神の民イスラエル」とおっしゃいましたが、イスラエルの名を受けたヤコブにちなんで祝福を約束します。兄弟エサウをだまし、家族のもとから逃げるように旅立ち、孤独と不安の中にいたヤコブに神は現れてくださいました。石を枕に野宿している時、夢で天使が天と地との間を上り下りするのを見ます。そして神は、この地、またヤコブの子孫を祝福し、「わたしは共にいる」という約束を与えてくださったのでした(創世記28:10~15)。イエスこそ、この安息を与え、神のもとに導いてくださる「神の家」「天の門」であり、ナタナエルにはこのように天と地をつなぐ出来事が、夢ではなく、現実のこととして目撃すると宣言されたのです。そして、現在、教会がそのものであること、私たちもその証人とされていることを覚えましょう。
結 論
神は私たちの自分のことはもちろん、家族、親族、社会のことを憂い、祈る中で、主は一つひとつに応えてくださり、さらに主のみこころを知るようにと高嶺へと導き、その祝福を見せてくださいます。弟子として招いてくださる主が、期待していてくださることを覚えつつ、祈り求めてまいりましょう。 |