メッセンジャー:仁科宣雄師
「誘惑を退けられたイエス」 ( マタイの福音書 4章1~7節 )
私たちは誘惑のあふれる世で生活しています。「誘う」だけなら良いことも悪いこともあるのですが、私たちの理性や常識を巧みにすり替えながら、悪へと誘い込む「誘惑」に気をつけなければいけないのです。
Ⅰ.主の御手のうちにある試み
イエスは、「試みる者」に荒野に導かれますが、それは「聖霊」による導きでした。この荒野でイエスは、御自分の使命について思いめぐらし、祈っておられたのでしょう。人の子として、空腹や睡眠など弱さを覚えつつも、40日間、一切の必要を神に祈り求め、神との交わりで心を満たし、「断食をし」時を過ごしたのです。私たちは試みにさらされる時、神は願いを聞いてくれなかった、私は見捨てられたと考えがちですが、試みも神の御手の中にある、御霊の導きの中にあるということを覚えましょう(Ⅰコリント10:13)。 どんな試みの中にあっても主の霊が伴っていてくださり、私たちの理解を超えた神の現実を見させてくださるのです。イエスは、人間の弱さを知り、試みにどのように対処したら良いのか模範をしめすためであるかのように、試みを受けられたのです(へブル4:15)。
Ⅱ.悪魔のゆさぶり
体力的にも精神的にも限界とも言えるこの時、サタンは攻撃を仕掛けてきました。
①「生きるために石をパンに変えてみよ」…空腹であるイエスにとって目の前に転がる石はまさしくパンです。
サタンは、「これらの石をパンに変えてこそ、人々の現実の必要を満たす救い主だろう」と言うのです。
「あなたは神の子なのだから」と、サタンはイエスが神の子であることを認めたうえで、メシア失格の烙印を
押すために誘惑しているのです。サタンは本来は神の御力は神のみこころのために使うということを知った上
で、空腹の危機的な状況で、自分のために使って間違いではないだろう、と惑わすのです。イエスは、サタン
の巧妙な言葉を見抜いて、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」
と、申命記8章3節のみことばを引用し、言い返されたのです。
②「神殿の屋根から飛び降りてみよ」…サタンは、メシアを待ち望む人々の前で、誰もがアッと驚くような奇跡を
起こし自分がメシアであることを人々に証明したらどうかと、みことばを引用して提案します。しかしイエスは、
「あなたの神である主を試みてはならない(申命記6:16)」と、みことばを用いて誘惑を退けられたのです。
奇跡を起こすか否かは、神が決めることであり、人間が状況設定をして要求することではないのです。第2の誘
惑は、こうした神の主権を認める信仰に対する重大な挑戦だったのです。神は全知全能であり、御子イエスをお
与えになるほど、私たちを愛しておられるのです。この神のなさることこそ、私たちにとっての最善であること
を覚えて、神の主権を認め、信頼しましょう。
Ⅲ.みことばによる勝利
イエスは、サタンの誘惑を「神の子の力」や「奇跡」ではなく、みことばによって退けました。この試みが自分が神の子であるということはどういうことなのか、人を救うということがどういうことなのかと神から問いかけられているのだと受け止め、神の民の歴史に聞きながら、神の愛と忍耐を確信し、私は神に聞き従いますとみことばをもって信仰を告白しました.
結 論
試みは、誰の言うことを聴いているかを明らかにします。神の声に聴いていれば、もはや試みは、試みでなくなります。巧妙に私たちを神から離そうとするサタンの声以上に、主のみことばに聴き、主のみこころを知り、その主を信頼し、従っていく時、自分が満たされるだけでなく多くの人の祝福につながることを信じましょう。