2024年1月21日主日礼拝メッセージ 「敵を愛する祈り」

メッセンジャー:仁科宣雄師

目次

「敵を愛する祈り」             (マタイの福音書5章43~48節)

この社会で『クリスチャン』は、真面目、正直者、善意の人、等のイメージを もたれる方が少なくありません。私たちを造られた神は、一人ひとりに個性があって当然で、それが違っていて当たり前とおっしゃっています。ただ、生きる目的が一つなので、それに向かって歩む姿が似ているといわれるところでしょう。

Ⅰ.主イエスの戒め (5:43~44)

『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め(5:43)』『目には目を歯には歯を(5:26)』という教えが当時の人々の間で広まっていましたが、イエスは「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と反対の生き方を示されました。 どちらの生き方が生きやすいのでしょうか?イエスの求める愛とは「アガペー」の愛で、本来の意味は、くじくことができない慈悲、打ち破ることのできない善意です。その人がどんな人であっても、自分に対してどのようであっても、心に憎しみをもたずにその人に対して,くじくことができない慈悲や善意をもって接し、その人の一番ためになることだけをしようとする「一方的な愛、無条件の愛」です。私たち自身、イエスにとっては神のことばに従わない「敵」でした(ローマ5:1∼11)。しかしイエスが「隣人」だからと、命を懸けて私と共におらせると愛を示してくださったのです。私たちはイエスの持つ愛の力を受けたからこそ、自然の感情を克服し、意志をもって全ての人を愛することができるのです。神の愛を知らないで生きる生き方を「生きやすい」と言いきれるでしょうか? さらに自分のために祈り、続いて自分の敵と思う人、自分を迫害する人のために祈る時に、私たちのうちに変化が起こるのです。私たちは神の前で人を憎み続けることはできないのです。その人のために祈る時、憎しみは薄れていくのです 。

Ⅱ.天の父の愛  (5:45~47)

「まさったこと(:47)」とは「常識を超えること」という意味があります。自分を愛してくれる人だけを愛する、その人も嫌いになれば愛さなくなって当然であり、自然のこと、常識とイエスもお認めになるのです。しかし、それが「愛」と言えるのかと主は問われるのです。常識で考えるとなぜ?どうして?と思う時、そこに一歩踏み込むのです。それが、相手を生かすことなら、そこで自分にもう一歩と強い意志を働かせるのです。主はこの問いに答えられるように、同時に力を与えくださっています。神から受けた愛、イエスの力、聖霊の励ましを確信する時、私たちは「敵」のために小さな行動を起こすことができるのです。

Ⅲ、完全な天の父に倣って(5:48)

一つのものが造られる時、まず計画され、設計され、作成され、それが本来の目的を十分に果たして初めて完全と言います。つまり、人は神によって創造され、世に送り出された目的を果たす時に完全と言えるのです。「己のごとくその隣人を愛さないならば、なぜ、破滅となるのか、それは人間がそう造られているからである」と私たちが創造された目的は神を人を愛し、仕えるためなのです。

結 論

私たちの主にある生き方は時にむなしく、ささやかな行為かもしれません。しかし、そこにイエスの目的であられる真の愛に満ちた神の国が建て上げられていくことを信じ、主と共に働く一人とされていることを感謝しつつ、主の愛の業に励んでまいりましょう。

アーカイブ

目次