2024年2月11日 主日礼拝メッセージ 「愛する者の死」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「愛する者の死」           (ヨハネの福音書11章  1~15節)

2月14日は「レント(灰の水曜日)」と言われる日で、この日から「受難節」に入ります。
イエスにとっての「死」、私たちにとっての「死」についての意味を考えていきましょう。

.病気の知らせを聞くイエス(1〜16節)

神の子としてのイエスの働きは「まくらするところがない」日々でした、そんなイエスにとって、べタニアにあるマルタ、ラザロ、マリアの3人兄弟が住む家は、身体や心を休めることができる所でした。この3人はイエスを愛し、イエスもこの3人を愛しておられました。 過越しの祭りが近づいたある日、イエスのもとに「あなたの愛しておられる者が病気です」という知らせがマリアとマルタから届きました。彼女たちは神の御子、主イエスなら癒してくださる、という信仰がありました。ところがイエスは、「この病気は神の栄光のため」とおっしゃるだけで、動かれなかったのです。神の時を父なる神に祈り求めていたのでしょう。 その二日後、イエスはベタニアの彼女たちの家に向かいます。べタニアは、イエスが石打にされたエルサレムから至近距離にあり、命の危険があります。しかもラザロは死んでいるでしょう。今更行っても・・・と思う弟子たちにイエスは、「世の光=イエスがおられる間に、神との平和を得るという仕事をしなさい。あなたにも暗闇がおとずれ、神のいない悪に支配される時がくるから」と、イエスは、今、自分がべタニアに行くことは、神の時であり、神のみこころを示すことにほかならないとおっしゃったのです。そして、眠っているラザロを「起こしに行きます(生き返らせます)。」とイエスはその目的を話します。その真意をわからずにいる弟子たちに、イエスは、「これから起こることをしっかりと見なさい」とおっしゃられ、彼女たちの家へと向かうのでした。イエスには「おことばだけ」でも癒す力はありました。が、二人の悲嘆の叫びを聞き、みことばの約束を示されたのです。

Ⅱ.「死」の痛みを知るイエス(17〜37節)

泣き悲しむマリアを見てイエスは、①霊に憤り、心を騒がせます…人間は罪ゆえに死に支配され、死ぬべき存在となってしまいました。人間にとって最後の敵である「死」に激しく憤られたのです。クリスチャンが死に対して、悲しみや悔しさをこらえることは必要ないのです。②涙を流されます…私たちの痛みの中に来て、心を動かし、一緒に泣いてくださる救い主。これが神の子が人となられた理由です。人間の嘆き、限界、疲れや喪失の痛みを知って、その痛みの中に来て愛を表してくださいました。

Ⅲ.永遠のいのちの約束

最後まで、イエスに期待し、イエスが必ず助けてくださると信じているマルタに、イエスは、ラザロがよみがえることを告げます。マルタはこれまで彼女の信じるユダア教の「よみがえり」の信仰を言い表しますが、イエスはその信仰に新しい意味をもたらします。信仰者の死は死で終わらない、よみがえるという約束でした。イエスは、これから自分が成し遂げようとしている十字架による「死とよみがえり」は、罪のうちに死んだいのちを生きかえらすことができるという「死の解決」であるということを宣言されたのです。人は肉体は死んでも霊によって生き続ける…容易には理解できないこの真理を、生きていて信じる者になりなさいと、「愛するラザロの死」をもって、私たちに働きかけていてくださるのです。

結  論

誰もが避けることができない「死」は、生ける者の地から断たれるのではなく、イエス・キリストによって生ける者の地に入っていくことなのです。私たちは日没に向かう旅ではなく、イエス・キリストによって日の出に向かって旅している者であることを覚えつつ、「死」を通して教えられる希望、永遠のいのちをこの手に握って進みましょう。

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