メッセンジャー:仁科宣雄師
「高価なささげもの」 (ヨハネの福音書12章 1~11節)
日本人は義理と人情を大切にします。「思いがけない」「身に余る」恩に対しての感謝と愛情をことばでは言い表せない分、お返ししたいと考え、よりつながりが深まっていくでしょう。この心がなく、これをもってお返ししますというものならば、淋しいものです。
Ⅰ.マリアの香油注ぎ (1~3節)
過ぎ越しの祭りが近づいた頃、イエスは、数日後には十字架につけられるという極めて重要な局面を控えていました。イエス一行はべタニア村に入られますが、イエスが訪れた家には、主が死から生きかえらせたばかりのラザロ、忙しく接待するマルタがいます。というとマリアは?マリアはイエスのもとに来て、ナルドの香油を壺ごと割ってイエスの足に注ぎ、自分の髪で拭うのでした。ラザロの死後4日目の「臭くなった」そのにおいをかき消 すかのように、その良い香りが「部屋に満ちた」のは大きな恵みです。 マリアはラザロを生きかえらせてくれたという感謝だけでなく、イエスを「神の御子」とし、そのイエスが私たちをこれほどに愛していて下さるその愛に対して、「私もあなたを愛します。」という思いが、今、手元にある香油をささげたいという行為を引き出したのです。 ①「足元にひざまずいて」・・・この後、イエス自らが弟子たちの足元にひざまずいてしもべの姿をとられ、弟子たちに互いに愛し合うことの姿を教えられました(13章)。この時のマリアは主イエスがなさった愛の行為、また、しもべの姿を先取りするかのようです。 ②「髪でぬぐった」・・・「髪」は当時、命の現れのように重んじられており、髪の毛をほどいてイエスの足を拭う、という行為には、彼女の全てを注ぎ出す「献身」の現われでした。
Ⅱ.価値観の違う人びと(4~11節)
その香油は、約一年分の労賃の価値がある高価な油です。弟子の一人のユダは、「そのお金があれば多くの貧しい人々を助けられるのに」と非難します。一見すると貧しい人々のことを気にかけているかのようですが、自分が不正を働いていたから出たことばです。「盗人であって(:6)」と、金銭のことだけでなく、その「心」も貧しい人々のために自分を犠牲にすることはなく、自分の利益のためだったのです。イエスは、貧しい人に援助することを否定しているのではなく、それ以上にイエスの教えを通して生きる糧と希望を与えてあげてほしい。真実をもって心にかけてあげてほしいと願われるのです。 また、イエスを敵対視する宗教指導者たちも、マリアの行為を見ていたら到底理解できなかったでしょう。多くのユダヤ人たちが本問いに生き返ったラザロを見て、イエスの力を信じました。それを見た指導者たちは、ラザロをも殺す相談をするのでした。
Ⅲ.喜ばれた高価なささげもの
イエスはマリアの捧げ物を喜んで受け取られました。この油注ぎこそマリアの信仰告白でした。メシア=油注がれた者。まさしくマリアはイエスを「油注がれた者」とし、マリアの意図しないところで、イエスが救い主として神のみわざを完成するという重大な使命を表すお方であることを言い表すこととなったのです。同時にその死のために備えられていた香油となったのです。
結 論
今私たちがささげている時間、お金、心は、この世の価値観からすれば「もったいない」と見えるようなものです。しかし、私たちの死ぬべき罪を取り除き、新たに生きる喜びを与えてくださった主に対する愛と献身、主への信仰は沸き上がってくるのです。誰も止めることができないのです。どんなに小さなものでも「今の自分にとってこれが最高のささげものです」と自信をもってささげましょう。 |