2024年3月3日 教会創立45周年 記念感謝礼拝 メッセージ 「聖餐を共にする教会」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「聖餐を共にする教会」         (マタイの福音書26章 17~30節)

教会は45周年を迎えました。それは、神の存在、聖書による神の御声、救いのご計画を信じ、その神の教えに従っている皆さんがおられると言うことです。イエスはそのような私たちと「祝杯」を交わす日を約束されています。その約束を見失わないために、主は一つのしるしを表してくださいました。

Ⅰ.サタンに心奪われたユダ   (26章12~16節)

マリアがイエスに香油を注ぎ、そのことをイエスが「埋葬の備え」と語られた直後、イエスを実際に「死」へと向かわせる出来事が起こります。弟子の中の一人であるユダが、イエスを引き渡すことを祭司たちに持ちかけたのです。ユダにその思いを与えたのは「サタン」でした。サタンの支配のもとユダを通して進められたことは、神のご計画の中にあったと言えるのです。このような策力をも飲み込んで、神のご計画である「御子の十字架による救い」は実現へと向かうのです。

Ⅱ.弟子たちとの「最後の晩餐」   (26章17~28節)

①過ぎ越しの食事・・・出エジプト12章の出来事を思いながら、一定の規定に従って家族で行う儀式的な食事です。イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放し、約束の地に定住させてくださった神の救いを感謝し、忘れないようにするためのものでした。 ②弟子の裏切りを預言・・・食事の場において、イエスが私を裏切る者がいると言われたとき、弟子の誰もが自分は違うと絶対の自信をもって応えることができなかったのです。イエスは最後まで「12弟子の一人のユダ」と言い、弟子たち全員が、イエスにつまずき、捨てていくことをご存じでした。教会の中から破れが起こることを覚える必要があります。 ③新しい契約・・・親しく愛しておられた弟子たちが死に支配され、これまでの愛が崩れようとしている時、イエスは決して絶望しておられませんでした。さかれたパンを「十字架につけられるわたしの身体」、ぶどう酒を「十字架で流されるわたしの血」と示し、イエスご自身が私たちの罪を取り除くいけにえとして、「ただ一度」十字架で血を流して死なれることで罪が赦される完全な「救い」と実現されるのです。新しい契約とは愛の回復です。

Ⅲ.聖餐を共にする教会   (26章29~30節)

イエスは、キリスト教会が誕生して以来、「わたしを記念するため」に「聖餐式」を執り行うよう、制定されました。イエスの体とその血を食べて飲むと言うことは、「わたしのために罪のいけにえとなってくださったイエスを信じて受取ります。」「イエスの死によって信じる者すべてに罪の赦しが与えられ、神の愛する民として聖別されました、その中の一人が私です。私に永遠のいのちが与えられたことを感謝します」という告白であり、聖餐に与ることによって、十字架に表された「愛と命」を私たちの命として生きることです。たとえ、どのような弱さの中にあっても、イエスにつまずき、捨て去るようなことがあっても、十字架による契約が新しい命に生かしてくださるのです。天に帰られたイエスは、王として再び来られ、神の国が完成するその時に、祝杯をあげようと約束してくださいました。そして、その祝杯を私たちと挙げようと、一日一日、待っていて下さるのです。

  論

こうして立ち続ける教会の働きを覚える時、その祝福の実である私たち一人ひとりが、自分にとっての創造主であり、救い主、きよめ主であられる神を体験し、確信し続けることが大きな力となるのです。個々の思惑が社会を揺るがしている今、真の解決を与え得る教会として立ち、イエスが再び来られる主の日、共に喜びの祝杯を挙げられるよう、聖霊の助けを信じ求めつつ、主の死を告げ知らせてまいりましょう。

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