メッセンジャー:仁科宣雄師
「不当な裁判」 (マタイの福音書26章 57~68節)
司法がすべてを明らかにするのは本当に難しいことです。神の前にはすべての人が平等であり、裁かれる者です。最後まで真実を求めて生きる人生でありたいと願いましょう。 イエスの十字架を決定させるためにも裁判が必要でした。それは最初から仕組まれた裁判であり、多くの人々の感情が働いていたのですが、、神こそ真のさばき主でした。
Ⅰ.仕組まれた裁判 (26章57~68節、 27章1∼2、11∼26節)
①大祭司カヤパによる判決‥・イエスはカヤパの問いかけに、自分こそメシアであると宣言され、さらに復活、昇天し、神の右の座につき、天の雲と共に再び来られ、御国を完成させると宣言されます。サタンの企みに動じることなく、冷静に神のご計画にご自身を委ねておられました。カヤパはイエスに対する怒りと拒絶をあらわにし、神を冒涜したとして「死刑」を宣告したのです。死刑が確定しても、その宣告と執行権は、当時ユダヤを支配していたローマにあります。カヤパはローマ総督のピラトにイエスを引き渡します。
②ピラトによる判決・・・ユダヤ人指導者たちは、イエスを政治的反逆者として偽りの訴状を作り上げ、ピラトに訴えます。ピラトの「あなたはユダヤ人の王なのか。」という問いに、イエスは肯定も否定もされません(27:11)。この世の王としてではなくて、ユダヤ人を含め、ご自分を信じるすべての人のまことの王だからでした。ピラトは、イエスの態度や、ピラトの奥さんがイエスの夢を見て「正しい方」と証言したことも含めて、イエスの無実を認めていました。そのため、祭りでは罪人を一人釈放する習慣を用いてイエスを救おうとしますが、祭司長たちはあらかじめ群衆を扇動して、犯罪人バラバを釈放するように仕向け、イエスを十字架につけるよう、叫ばせたのです。
③群衆たちによる判決・・・真理がわからずに自分たちの身を守るために、罪のない御子イエスを十字架へと引き渡してしまったのです。私たちも社会という人間の圧力、日本人ならという慣習、目に見えない神への不信仰に流されて、無責任に「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ者ではないでしょうか?この中に、イエスからいただいた愛と赦しを握りしめ、無実を訴える人がいたことも覚えつつ、その一人でありたいと願いましょう。
Ⅱ.始めと終わりを知る弟子たち (26章69~75節、27章3~10節)
ペテロは弟子として、イエスの教えてこられた「神の国の祝福」を知っていました。それを、「そんな人は知らない」ということばに変えてしまったのです。イエスとの最後となった「わたしを裏切るだろう」という言葉を思い出したペテロは庭の外に出て激しく泣きます。 イエスを十字架へと導くこととなったユダは、激しく後悔しても、悔い改めすことをせず、自ら命を絶ちます。予告として語られていた命の尊さに気づくことができなかったのす.
Ⅲ.沈黙の中にあらわされるイエスの叫び
「沈黙」を貫き通すイエスは、「屠り場に引かれて行く羊」の姿(イザヤ53章)でした。もしイエスが口を開いて、真実を語り始めたなら、一挙に体制が逆転したでしょう。罪に問われるのはユダヤ人指導者たち、ピラト、群衆たち、ユダ、ペテロ、そして私たちなのです。 イエスと共に十字架を選び取れると言いきれない私たち・・・その弱さを知ってイエスが『私があなたがたの代わりに行く』と一人進まれたのです。沈黙こそ「罪の中に迷い悩むわたしたちをサタンに渡すことはできない」と言うイエスの叫びだったのです。
結 論
自分の力で「自分は正しい」と主張する私たちの心にひそむ罪を赦すために、イエスは十字架の道を選び取ってくださいました。共に歩んでくださるイエスこそ、私の王、私のための勝利者として信じ、賛美し、お仕えしていきましょう。 |