メッセンジャー:仁科宣雄師
「わたしのための十字架」 (マタイの福音書27章 39~54節)
多くの人々の苦しみを覚え続けることは容易なことではありませんが、身近な人、特別な人の苦しみは共に負うことができます。イエスの苦しみは負うことができるでしょうか?
Ⅰ、イエスの苦しみ
イエスの十字架に関わる場面を多くの画家が描き、芸術品とされていますが、その現場を忠実に描くならば、とても鑑賞に値しない絵であったのではないでしょうか。 ①全生涯にわたる苦しみ・・・この日の極刑=父なる神に呪われ、見捨てられた者としての苦しみは、苦難全体の集約とも言えるのですが、この世に遣わされて、ここに至るまでの完全な従順は、常にこの極刑を予期する苦しみへの道筋であったとも言えるのです。 ②肉体と魂に及ぶ苦しみ・・・イエスご自身、肉体の痛み以上にご自分の魂が捨てられる苦しみを知るからこそ、私達、人が同じ苦しみを味わうことを恐れたのです。何としてもその苦しみから救いたいと願われたのです。父なる神の「情熱」をご自分のものとされたからです。 ③私たちの贖いのための苦しみ・・・衰弱と恥辱の中で刑場に着いたイエスは、兵士が指し出す「苦みを混ぜたぶどう酒」を飲まれませんでした。神が与える苦しみの杯を薄めることはせず、全ての人の罪の身代わりとして宥めの供え物として「完全な犠牲」を望まれたのです。そこには「私が罰を受けて苦しみ死ぬのだから、あなたは生きよ」と言うメッセージがあるのです。
Ⅱ.十字架にとどまらせた神の愛 (27章32~44節)
人々はここにきて、イエスが十字架から降りるかどうか見ようとします。神の御力を使って降りるならおまえを神の子と信じると言うのです。この罵声は荒野でイエスを誘惑したサタンの声と重なります。祭司長たちは、「自分を救えないのか」とあざけますが、イエスはご自分を救わないことが罪人を救うことになること、それが神が愛する人々を救うための唯一の方法であることを知るからこそ、十字架にとどまり続けたのです。イエスを十字架にとどまらせたのは、太い釘ではなく、私たちへの愛だったのです。
Ⅲ、どこまでも引き寄せる神の愛 (27章45~56節)
真昼間の12時~午後3時、闇が全地をおおいました。絶えず父なる神との親しい交わりに生きていたイエスが神に呪われ、神の怒りと裁きを受けられたのです。神との断絶は暗黒が示す究極の苦しみを意味します。「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と、父と息子との関係ではなく、神の前にある罪人として、その苦悩を叫ばれたのです。そして、「完了した」と勝利の雄たけびを上げられます。「完了」とは、「自ら行動して何かをすることで仕上げること」「これ以上は何もする必要がない状態までやり遂げる」と言う意味があります。全てのみわざを成し遂げたイエスは再び「私の愛する父よ」と呼びかけ、「わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と平安のうちに父への信頼を叫ばれたのでした。 同時に神殿の聖所と至聖所を隔てる幕が天から地へと真っ二つに裂かれました。イエスによってこの幕が取り除かれ、誰でもいつでも遠慮なく、神に近づける道が開かれたのです(へブル10:19∼22)。ありのままの自分で主のもとにくることを待っておられるのです。
結 論
イエスの身代わりの死によって確かなものとなった神の愛、永遠に続く希望を信じましょう。その要である主の十字架の苦しみを受けるべきは「自分」であることを覚えつつ、「受難週」の恵みをいただきましょう。 |