メッセンジャー:仁科宣雄師
「みことばによる結実」 (マタイの福音書13章 1~23節)
農作物に限らず、草花においても良い実や花をつかせるには「土」に秘訣があります. 今日は、その土地が私たちの心であると言うイエスのたとえからのメッセージです。
Ⅰ.耳のある者への忠告 (13章1~3、9~17節)
イエスは「たとえ」を用いて多く語られましたが、全ては「神の国」に関するものでした。目に見えない天の御国(神の国)の奥義(真実)を聞く者に、「たとえ」=日常生活で誰もが経験することを用いて理解させようとなさったのです。 イエスのもとには日々多くの人が集まってきました。その中にはイエスに反発し、偏見の目で批判ばかりする人もいました。そんな彼らにイエスは、「救い主」を目の前で見てはいても見ず、福音を聞いては いても聞かずに悟ることもしないと言い切っているのです。イエスは、「耳のある人は聞きなさい」と、求道心を持ってイエスのことばを聞く人には、奥義が明らかにされて豊かな祝福を与えられるが、そうでない人はますます奥義から遠ざけられるというのです。
Ⅱ.種まきのたとえ (13章4~8節)
当時の種まきは、かなり大ざっぱで種は農地以外にも飛び散りました。蒔かれた種が 落ちたのは4種類の土地、道端、土の薄い岩地、茨の間、そして本来の農地「良い地」 です。それぞれの地に落ちた種は、①道端に落ちた種は鳥に食べられました。②岩地 に落ちた種は芽を出しますが、土が薄くて根を張ることができず、太陽の熱で枯れてしま いました。③茨の間に落ちた種は、茨に塞がれて成長することができませんでした。④ 本来の「良い地」に落ちた種だけは豊かに実を結びました。
Ⅲ.豊かに実を結ぶための人生 (13章18~23節)
「種」とは神のおことば=聖書のみことばです。種をまく「農夫」は、神あるいは主イエスご自身、説教者、さらに神のことばを掲げる教会のことです。本来は、大切な御言葉ですから、丁寧にまく必要があります。蒔く人の責任は大きいのです。しかし、イエスがこのたとえで目を留めるべきは、その種が落ちた「地」=「心」とおっしゃるのでした。 ①「道端の心」とは、最初から神のことばを聞こうとはしていない思いで踏み固められている心です。自分の考えをがっちり持ちながら、いつものことばかと、期待することなく聞いているのです。②「岩地の心」は土深く根が張らないのです。みことばを聞くと、喜んで受け入れますが、困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまう人のことです。熱しやすく、冷めやすい。みことばを信じたのではなく、感動して終わるのです。③「茨で塞がれた心」とは、みことばを聞いてはいるが、この世の思い煩いと富の誘惑によってみことばが塞がれてしまって、実を結ばない人です。日本人のもつ神意識、習慣などに惑わされ、主の前に言い分けしながら、いつしか信仰の芽が摘まれていることに気がついていないのです。④「よく耕かされた良い心」とは、愛情を注ぎ、作物に合わせて努力し土壌が造られていくように、みことばを単に知識とするだけではなく、神のみこころを求める生き方へと変革されるまでです。その心が御霊の実(ガラテヤ5:22,23)を豊かに結ぶのです。これらの実が、全ての幸いに通じることを人生が進むごとに実感するでしょう。
結 論
道端、岩地、いばらのような心が混在する私たちです。土地を整えることは大切ですが、まず神のことばによって結ばれる「祝福の実」の価値を認め、求めていくことが大切です。神のことばの広さ、深さを味わいつつ、豊かな実を結ばせていただきましょう。 |