メッセンジャー:仁科宣雄師
[迷子の羊を見出す喜び」 (ルカの福音書15章 1~10節)
ものをなくしてしまった時、何が何でも捜し出さなければならないものがあります。どん なに小さなものでも、大きなものを完成させるために無くてはならない存在です。 昇天されたイエスは、弟子たちに神の国の建設を託されましが、私たちへの使命でもあります。一人ひとりの信仰を働かせて神のみわざがこの世に証しされていきます。
Ⅰ.誰に語られた?主イエスの話 (1~3節)
イエスの「聞く耳のある人は聞きなさい(14:35)」との招きに「罪人たちがみな」話を聞きに来ました。当時の「罪人」とは、呪われている人、汚らわしいとみなされていた人、家業のために安息日を守ることができない人、占いや売春をする人、身体的な障害や病気を負った人などのことで、社会的にも排除されている彼らをイエスは「友」として、迎え入れたのです。それを快く思わない「パリサイ人たち、律法学者たち」は、当時のユダヤ教のエリートで律法を遵守し、自らに汚れをかぶることを避けていました。イエスはこれからのたとえを罪人たちを蔑み、主の話に耳を傾けようとしないリーダーたちに語られたのです.
Ⅱ.迷子の羊のたとえ (4~7節)
「いなくなった1匹」の「いなくなった」は「滅びる」という意味があります。羊は、弱くて臆病、頑固な動物です。飼い主のいない羊は同じ道ばかり通ってそこの草を食べつくし、自分の汚物でいっぱいにし、病気や寄生虫で死んでしまうそうです。羊飼いがいても羊はおなかがすくと我慢できず、目の前の枯れ草を食べ、それでも足らないと勝手に群れから離れてしまうのです。その羊は、結局、餓死、病気、崖からの転落…羊飼いの手から離れた羊は、もはや死んだも同然で滅びるのは時間の問題…。だから羊飼いは99匹を野に残しても、いなくなった一匹を捜しに行くのです。それは、命をかけるほどに危険なことでもありました。しかしそんなことは忘れて、見つけたなら大喜びで友人たちと喜びを分かち合うのです。それ以上に天においても喜びがあるのです。 神から離れた私たちは、羊飼いの元からいなくなった一匹の羊と同じです。イエスはその羊を捜し出して、救い出し、命を豊かに与えるために来られたのです(ヨハネ10:10).
Ⅲ.なくした銀貨のたとえ (8〜10節)
一人の女性が十枚持っていたドラクマ銀貨のうち一枚を家で紛失し、必死に捜して見つけ出すと、外に飛び出してその喜びを表します。当時、結婚した女性はドラクマ硬貨10枚を持参金として紐で束ねて首飾りとし、いつも肌身離さず身に着けていたと言います。その硬貨が床に散らばってしまったのです。この女性にとってはなくてはならない一枚だったのです。「なくした」ということばも「滅びる」という意味です。この銀貨は、もし見つからなければ、お金としては死んだ状態です。見出されて持ち主の手に戻ってはじめて、またお金としての価値があるのです。硬貨に意志がないのと同じように、生まれながらの人間は、神から離れ、罪を犯しているという自覚はなく、そのために、本来の自分の価値、目的や自分の役割りが分からないのです。しかし、神に見いだされ、神の御手に握られる時、私たちは自分の価値、生きる目的、自分の役割りが何であるかを神に教えていただけるのです。
結 論
同じ「さがす」でも、「探す」は欲しいものを、「捜す」はあったのに見えなくなったものをと、漢字は使い分けられます。私たちは、自分の満足を得ようと無限に探し求める「迷子?」…、そんな私たちを神は捜し出し、この地が愛と希望に満ちるために用いようと願っておられます。一人の人が救われるために祈り、共に喜びましょう。